4話 誰かのかわり(5)
ヒフミに感謝と結果を伝えた日の夕食前、エミリーは準備中に皿を割ってしまった。最近気を張っていたから疲れていたのだろうかと、落ちこみながら倉庫に掃除道具を取りに行った。裁縫箱とドレスも見つからないし、根本的に解決したわけではないのだ。
皿を片付けて掃除道具を倉庫に戻し、食堂へ足を向ける。
思わず、エミリーは立ち止まった。ホールから、誰かが階段を上がっていくのが見えた。ヒフミ以外はまだ作業場で仕事中のはずなので、悪い予感が先行した。たまたま二階に用事があったのかもしれない。けれど。
エミリーは自分の心臓の音を聞きながら、ホールへ歩き出した。握った手の、指先が冷たくなっている。群青色の薄闇と壁かけランプの淡い光が混じり合うなか、足音を殺して階段を上っていく。誰もいないのを確認して、踊り場から右に続く階段を上りきった。
廊下の曲がり角の壁に背をつける。鼓動が速い。怖い。息をひそめて、角から廊下をうかがった。
そこには、壁かけランプのもとに照らし出された、妖精がいた。
見間違いかと思った。けれど、シンティアがエミリーの部屋の前に立っていた。どういうことか分からないまま固まっていると、シンティアの手がドアノブへ伸びる。
エミリーは階段の角から廊下へ飛び出していた。シンティアがこちらを振り向く。その一瞬で、なぜ飛び出してしまったのだろう、下へ助けを求めに行けばよかったと後悔の念が渦巻く。
シンティアは目を見開いてエミリーを見つめていたが、我に返ったように足早に歩んでくる。逃げようとしても足が動かなかった。声も出ない。
エミリーの目の前で立ち止まったシンティアは、不安そうな面持ちをしていた。
「エミリー、ちょうどよかった。部屋開けて」
シンティアはなぜか小声だった。何も考えられずただ目をそらせずにいると、シンティアは眉根を強く寄せる。
「お願い。人が入っていった気がするんだ。早く」
「人?」
ようやく、声が出た。今まさにエミリーの部屋に入ろうとしていたのはシンティアではないのか。
エミリーはシンティアに手を取られ、部屋の前まで引っぱられる。
「お願い。嫌な予感がするんだ」
シンティアの表情はどこか切迫していて心配そうで、演技には見えなかった。本当なのかうそなのか、もはや判断できず、
金属がかみ合うような音、ちょうど、ハサミの刃を合わせたときのような、鋭い音が聞こえた気がした。
暗い部屋の中、廊下からの光に浮かび上がった姿は、まだ半分子どもの少女、マリアンヌだった。マリアンヌはこちらを振り返っていて、信じられないものを見たように目を見開いていた。顔色など分からない暗さなのに、青ざめていると思った。震える右手には布を断つときに使うハサミ、そして左手には。
エミリーは部屋に足を踏み入れた。暗くて、よく見えなかったのだ。マリアンヌの手前で、立ち止まる。
マリアンヌの左手には、引き出しに鍵をかけてしまっていたはずの、真紅のリボンが握られていた。
マリアンヌが駆けた。エミリーの横をすり抜けて、シンティアの脇から廊下へ。シンティアが走ったのにつられて、エミリーも追いかける。
廊下を走るマリアンヌを、シンティアが肩をつかんで捕まえる。エミリーもすぐに追いついた。ホールの吹き抜けを横切る渡り廊下で、三人立ち止まる。
マリアンヌは目を見開いて、うつむいていた。体が、小さく震えていた。肩をつかんだままのシンティアが痛ましい目をして、マリアンヌと、エミリーを見た。
「最近、マリアンヌちょっとおかしいなって思ってたんだ。具合悪そうっていうか、切羽つまってるっていうか。だから、さっき作業場から出てったときこっそり見に行ってみたんだけど……」
そして、シンティアはマリアンヌがエミリーの部屋に入るのを見たのだ。そのあと、エミリーがシンティアを追いかけてはち合わせしたのだ。
エミリーはマリアンヌに近付いていった。左手から、真紅のリボンを取った。
はっきりと、片方のループに切れ目が入っている。
どれくらい
「ちょっと、アンタたち何してんのよ! 早く戻りなさいよ! おかげでアタシが呼びに行かされるはめに……」
「ちょっと待って。ハニール」
シンティアが下へ声を張ると、何か感じ取ったのかハニールの表情が真剣なものに変わった。そのまま階段を上って、渡り廊下までやって来る。
ハニールは異様な空気のなか、
「なあに? アンタまさか本当に嫌がらせしたの?」
シンティアにつかまれたままのマリアンヌの肩が震える。ハニールの口ぶりにエミリーは不審の目を向ける。
「どういうこと?」
「別に? 見たまま思ったことを言っただけだけど?」
ハニールの笑みは、消えない。
階下から靴音がした。弾かれるように見下ろすと、イルケトリがこちらを見上げて階段を上ってきている。
渡り廊下まで上がってきたイルケトリは、それぞれの顔を見渡して、いぶかしげな顔をした。
「何かあったのか?」
エミリーも、ほかの誰も答えなかった。ハニールが面倒そうにひとつ息を吐き出す。
「別に大したことじゃないわ」
マリアンヌが顔を上げる。ハニールを凝視して、震えている。
「この小娘がメイドに嫌がらせしただけ」
「待って」
マリアンヌの小さな声がハニールの言葉に重なる。マリアンヌは今にも崩れ落ちそうな
ハニールはマリアンヌを
「アタシの独り言を真に受けたんでしょうね」
「待って、やめて」
マリアンヌはか細い声でハニールの声を裂こうとする。けれど、止まらない。
「イルキがずいぶんメイドに入れこんでるみたいだから、このままじゃ時間の問題でしょうねって。嫌がらせすれば出ていくかもしれない、そうすれば全部元どおりになるわねって」
「やめて、言わないで!」
「この小娘、イルキを愛してるから」
マリアンヌの悲痛な声はハニールの残酷な声をかき消せなかった。マリアンヌは目を見開いて呆然と動きを止める。
イルケトリが、マリアンヌを見つめていた。マリアンヌが、吸い寄せられるようにゆっくりと、イルケトリのほうを向いた。
マリアンヌの顔が、
渡り廊下から階下へ走り去っていくマリアンヌを誰も追わなかった。ふりほどかれたシンティアが手を下ろす。ちょうど入れ違いになるようにヒフミが階段を上がってきて、こちらへやってきた。
エミリーはまだ夢を見ているような気持ちで、握っていたリボンに視線を落とした。
マリアンヌが、リボンを切った。
信じたくなかった。けれど、否定してくれなかった。マリアンヌは厳しいけれど言っていることはいつも正しくて、だからこそ曲がったことはしないと信じていたのに。
そそのかしたのは、ハニールだ。受け入れられていないのは当然分かっていた。けれどここまで残酷な悪意を持たれているとは、思わなかった。
あのときと同じだ。ほとんど
マリアンヌも、ハニールも、エミリーにいなくなってほしかったのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます