2話 ミス・ドレス・メイド(5)

「エミリー、もらったアップルパイがあるから昼に出してくれないか」

 朝食が終わって食器を下げているとき、エミリーは久しぶりにイルケトリに話しかけられた。貴族の屋敷ではないのでメイドながら食事は一緒にとっていたが、それ以外で会う機会がなかった。食事中は喋っていいらしいが、イルケトリが縫い手に調子を尋ねるくらいで会話が終わってしまうので話すこともなかった。

 その日の昼食、エミリーはアップルパイを切り分けて、紅茶をれた。申し訳ないながらも、ヒフミに湯だけ沸かしてもらった。

 ヒフミは食堂に戻っていたので、エミリーはひとりでアップルパイと紅茶をトレイに載せて運んだ。席順からまずイルケトリに、次にマリアンヌに出していく。食事のときは給仕しなくていいと言われていて、先にすべての料理を並べてしまうので、個別に出すのは初めてだ。最後に、ハニールの横に立つ。

 ハニールの席に紅茶を置き、アップルパイを置いた瞬間、ハニールがエミリーを仰いだ。

「ちょっと。どういうこと? これ」

 何のことか分からず、エミリーは体が固まる。

「何が、ですか?」

 エミリーはせめてそらさないようにハニールの目を見つめた。けれどその目はあまりにもはっきりとした嫌悪を宿している。

「アップルパイ。切り口が潰れてるわ」

 たしかに切るのに苦戦して、少し潰れてしまったかもしれない。

「す、すみません」

「何その心のこもってない返事。言っとくけどほかの料理がまずくたって文句言わないわよ。いちいち疲れるし。でもアップルパイだけはどうしても許せないわ! どうやったらこんなに雑に切れるの? アンタ、メイドでしょ?」

 そうは言ってもメイドの仕事などしたことがない。細かすぎる、と思っても言われてしまった以上、言い訳できない。無意識に浮かんでしまった不満を飲みこむ。

 もう一度謝ろうと口を開いたとき、ハニールのばかにしたような笑みが重なる。

「すぐ情に流されるイルキもイルキだけど、どうせアンタも同情を誘うようなこと言ってここへ来たんでしょ? 悲劇のヒロインぶって、わたしを助けてー、連れていってーって」

 容赦のない悪意に、体が熱くなった。失敗したことを責められるのなら仕方がない。けれど今の言葉はエミリーを傷付けるためにしか聞こえない。

「アップルパイのことは謝ります。でも、そんなこと言ってません」

「あら、言い方がきつかったらごめんなさいね。アタシ女が大嫌いなの。今すぐ出ていってほしいと思ってるくらい」

 あけすけな感情が心に刺さる前に、ふとつながった気がしてエミリーは口を開いていた。

「もしかしてイルキを取られると思ってるんですか? それならあたしとあの人はお給金だけの関係なので、まったく一切そんな心配は」

「何の話よ! 男なんて好きにならないわよ気持ち悪い! アタシが好きなのはアップルパイだけよ!」

 本気で嫌がっているように見えたので、どうやら違うらしい。ただの人嫌いなのだろうか。

 ハニールは深い嫌悪のまなざしでエミリーを射抜く。

「アタシはこれ以上人が増えてほしくないの。仕事ができるならまだ我慢もするけど、使い物にならない欠陥メイドなんて、イルキが認めてもアタシは認めないわ。絶対」

 体の中をつかまれたように、鼓動が速くなる。

「ひとついいかしら」

 ハニールのものではない高い声が割って入る。マリアンヌだ。

「ハニールの意見は私情が入りすぎているけれど、完全に的外れでもないわ。ここ数日、お茶が濃かったり、薄かったり、ばらばらだったわ。はっきり言えば、まずかった」

 マリアンヌはただ厳しいまっすぐな瞳をして、エミリーを見つめていた。

「こんなこと好んで言いたくはないのだけれど。経緯はどうあれ、あなたはメイドとして働くと決めたんでしょう? 紅茶なら味見をするとか、アップルパイなら注意してなるべく丁寧に切るとか、職務に真剣に取り組もうと努力するのが普通ではないの?」

 マリアンヌの言葉が心をえぐる。正論だった。言い返すこともできない。

 けれど、理解はしていても感情は別だ。好きでメイドになったわけではないのに、と胸の中で言い訳がくすぶる。分かっているのだ。たしかに働くと決めたのはエミリーだ。けれど心がついていかない。

 エミリーはイルケトリに視線を移していた。もしかして、ほんの少しでも助けてくれるのではないかと思ってしまった。ネコのような切れ長の瞳と、目が合う。

 けれど、一瞬だった。イルケトリは興味がなさそうな顔をして、視線を外した。警察署で知らないふりをしたときと、同じだ。

 エミリーは恥ずかしさで首筋が熱くなった。言われていることは正論だ。イルケトリにエミリーをかばう理由などない。

 それなのにどうして、イルケトリが助けてくれるかもしれないなどと期待してしまったのだろう。

「すみません。今度から、気を付けます」

 エミリーはえぐられた胸の痛みを押し殺して、全員の紅茶を厨房に下げた。自分が飲む用にとカップに注いでおいた紅茶を飲むと、舌の上に渋味が残った。

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