2話 ミス・ドレス・メイド(6)

 ミス・ドレスで働き始めてから一週間がたった。

 エミリーは洗濯室に行くために一階の廊下を歩いていた。開け放した窓から甘い花の香りが入ってきて、思わず窓辺に近付いた。中庭の端にある、橙色の花をつけた木だ。キンモクセイという木なのだと、ヒフミに聞いた。ナパージ国では珍しいので、ヒフミがイルケトリに頼んで外国から取り寄せてもらったらしい。

 館は山の上にあるからか、街よりも空気が冷たくて、中庭の芝生に反射する日差しがまぶしい。空は薄めたような青色で、雲はなく、ずっと見ているともっと奥があるような不思議な感覚になる。

「いい匂い……ああまた独り言……」

 基本的にひとりなので、独り言を直すのも面倒になってきた。結果、独り言が増えた。ハニールはことあるごとに嫌みを言ってくるし、マリアンヌは正論しか言わないが近寄りがたいし、ヒフミは返事はしてもらえるが話しかけてくれるほどではない。

「喋りたい……つらい……」

 マスカルでラナと店番していたころが恋しい。まだ一週間しかたっていないのに、遠い過去のことのようだった。

 こちらについてすぐ、ポーラとラナに手紙を出したのだが、まだ返事は来ていない。勝手に外へ出ることもできないので、シャーメリーにも行けない。シャーメリーは大体週末に新作が入荷してくるので、可愛いものが入荷していたらと思うと気が気でないし、完売してしまっていたら、もう立ち直れない。

 窓枠につっぷして、ため息は我慢していると、話し声が聞えてきた。エミリーは顔を上げて、大階段のあるホールへ目を向ける。近付いて、ホールの手前で壁に背をつけてそっとのぞきこむ。

 大階段から、イルケトリと、少女が下りてくる。

 イルケトリは黒い上着にネイビーブルーのタイ、グレーのウエストコートに薄いグレーのズボン、黒い革靴だった。白い手袋をして、レースの手袋に包まれた少女の手を取っている。

 一歩後ろから下りてくる少女は、こげ茶の髪を結い上げて、淡いピンク色の、レースがたっぷりついたドレスを着ている。顧客の、貴族の令嬢だ。たまたま近くを通りかかったのでドレスの進み具合を見に来たらしい。後ろに黒いドレスの年かさの侍女が控えている。

 紅茶を運んだので、来ていることは知っていた。こっそりのぞくのはどうかと思うが、メイドの格好で令嬢の前に堂々と出ていくわけにもいかないし、令嬢というのはどんなものなのか興味があった。

 ゆっくりと階段をおりながら、令嬢が気恥ずかしそうに微笑む。

「子どもみたいなことを言っているとおかしく感じられるかもしれませんけど、わたくしクリムアさまのドレスを着るとうれしくなるんです。魔法みたいに」

 イルケトリは裏のない柔らかい微笑みを浮かべる。

「それは光栄です。あなたを喜ばせる魔法使いになれるのなら」

 エミリーは鳥肌が立った。気持ちが悪い。

(いや、でもふだんの態度を知らなければ王子にしか見えないよね? 顧客だし。令嬢だし)

 あなたはだまされている、とエミリーが同情していると、令嬢は素直に笑った。

「ええ。クリムアさまは本当に、魔法使いです」

 令嬢の純真な微笑みは、エミリーが想像していた高慢な貴族のイメージとは違っていた。

 イルケトリと令嬢と侍女がエミリーに気付くことなく玄関から出ていく。声のなくなった空間で、エミリーは玄関の分厚いドアを見つめた。

 令嬢と並んだイルケトリは、貴族のようだった。ふだんしない正装をしていて、違和感なくつり合っていた。

 それに比べてエミリーは、ふたりを盗み見て、毎日グレーのドレスにエプロンで、大好きなシャーメリーのドレスを着ることもできない。着れば汚してしまう。メイドは着飾れる職業ではない。指もささくれだらけだし、手の甲はがさがさで痛くてかゆい。腰も痛い。マスカルにいたころとは違う。

 大好きなシャーメリーの服を着て、身なりを納得いくように整えられないのが、何より苦しい。

「何やってるんだろう。あたし」

 廊下の壁にもたれたまま何も考えられずにいると、玄関があいてイルケトリが戻ってきた。エミリーは反射的に逃げ出そうとしたが、イルケトリが近付いてきて、足が動かなくなる。

「仕事ははかどってるか?」

 イルケトリはエミリーの前に立って、微笑む。接客用の完璧な王子の微笑みではなく、からかうようなふだんのものだ。

 エミリーは少し視線を下げて頷く。このあいだ、助けてもらえるのではという見当違いの期待をしてしまってから、雇い主と従業員としてちゃんと距離を置こうと思っていた。

「何かあったのか?」

「な、何で?」

「いつもよりおとなしい」

 ふだんはおとなしくないというのだろうか。けれどあのとき以来、イルケトリとどう接すればいいのか分からなくなって、あまり話したくなかった。

「別に普通だから。早く仕事に戻ったら?」

「もしかしていてるのか?」

 エミリーは聞き間違えたかと思った。下げていた視線を上げる。

「あの、誰が、誰に?」

「お前が、令嬢と一緒にいた俺に」

 エミリーは頭を抱えたくなった。どうしてそういう思考になるのだろう。イルケトリにとってはそれが当たり前ということか。けれどここまで来るともう呆れるレベルだ。

「あのね、やきもちなんてやいてないし、勘違いもいいところだし、みんながみんなあなたのこと好きなわけじゃないから。自信過剰」

 少しきつく言いすぎたかと思ったが、イルケトリは「そうなのか」と不思議そうな顔をしていた。まったく効いていない。ばかばかしくなってエミリーはすべてを忘れることにした。

「用がないならもう行くから」

「ああ、待て。惑いの真紅のことだが」

 イルケトリが一段声を落として、エミリーは身構えた。

「まだ疑ってるの? あたしは盗難のことは本当に何も知らないの」

 声を高くしてしまわないよう、抑える。

 ミス・ドレスに来るとき、馬車の中で真紅のリボンについて知っていることはすべて話した。火事のあと、エミリーは父方の伯母の田舎いなかへ引き取られ、母の形見として真紅の布を受け取った。そしてリボンのコームを作った。それ以外何も知らない。

「違う。最初からお前のことは疑ってない。田舎に手紙を書いて何か知ってることがないか聞けないか?」

 イルケトリの表情は真剣で、やはりほんの少し切迫していた。

 エミリーは今まで一度も田舎に手紙を出していない。十五歳のとき、家出してきたからだ。きっと手紙を出せば居場所をつきとめられて、激怒され連れ戻されるだろう。

「ごめんなさい。手紙は、出せない……あたし、家出してきたから。連れ戻されたくない」

 家出してきたじゃじゃ馬娘と呆れられただろう。けれどまだ手紙を出せる勇気はない。

「そうか……分かった」

 意外な返事に顔を上げると、イルケトリは失意を含んだ面持ちながらもそれ以上言葉をつなげなかった。てっきり、もっと粘られると思っていたのだ。

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