1話 運命の王子様(8)
イルケトリはわずかに目を見張って、罪悪感を押し殺したように表情をなくした。
「そうだ。お前を助けたのは惑いの真紅を調べるためだ。本当は助けるつもりなんてなかった。感謝されるいわれはない」
少し、胸が苦しくなった。イルケトリはエミリーを疑っているのだ。けれど、それでも、すがりたくなってしまう。だってイルケトリは人混みの中でも、呼吸できなくなったのを助けてくれたときも、優しかった。
「でも、助けてくれた。疑われてても、何でも、助けてくれたことに変わりない」
目を見て、伝わるように、精いっぱい心を言葉に変える。
イルケトリは驚いたように少しだけ目を開いて、エミリーを見つめていた。
「本当に能なしなのか、お前」
真面目な、けれどあんまりな言い草が降ってきて、エミリーは聞き間違いかと思った。
「はい?」
「そもそもお前の具合が悪くなった原因はあの警察官の言いがかりだろうが、火事があったのはお前が魔飾を作る前だ。『形見』の布で作ったんだろ? 形見以前にお前が惑いの真紅を見てないなら、お前が魔飾を作って暴走させた確率は限りなく低い。火傷はしたんだな?」
理解が追いつかないながらも、エミリーは頷く。
エミリーの左脚には火傷の痕が残っている。だから、イルケトリの言葉を聞いて、火事の原因が自分ではないと思えたのだ。
「だからあのときすぐに落ち着かせるために火傷したんだろうって言った。自分の魔法は自分には効かないからな。つまり、火事を起こしたのはお前じゃない」
イルケトリの言葉を頭の中で繰り返して、整理して、理解した瞬間、エミリーは一気に顔が熱くなった。
「何で! 何でもっと早く言ってくれなかったの?」
つまりエミリーは初歩的なことに気付かずに、警察官の言葉に勝手に動揺して勝手に具合が悪くなったということだ。なぜそんな簡単なことに気付かなかったのだろう。ただの倒れ損だ。恥ずかしすぎてこの場から逃げ出したくなる。
「あの場でお前の能なしさを披露したほうがよかったか?」
イルケトリがどことなく哀れむような目で見てきて、しゃがみこんでうめきたくなった。それはそれで嫌だ。
「まあ、話はこれで全部だ。家まで送る」
心の中をうめき声でいっぱいにしていたら、イルケトリに手を取られて腕にかけさせられた。エミリーは身構えたが、イルケトリにとってはきっと当たり前で何でもないことなのだろう。
歩き出そうとするイルケトリを呼び止める。さわがしい大通りに出る前に、言っておきたいことがあった。
「あの、名前、もう一度聞いてもいい?」
「イルケトリ・クリムアだ。イルキでいい」
名前も姓もナパージの国ではとても珍しい響きだから、一度で覚えられなかったのだ。本当に東南の、異国の血を引いているのかもしれない。
エミリーは緊張している体を感じながら、イルケトリを仰ぐ。
「これから、よろしくお願いします。助けてくれて、本当にありがとう。イルキ」
緊張で、ちゃんと笑えなかったかもしれない。イルケトリは意外そうな顔でエミリーを見つめていたが、やがて微笑みを浮かべる。毒を含んでいるような、
「それは結構。明日からまずは借金返済に向けて、きっちり働いてもらうとしよう」
エミリーは思わず耳を素通りさせたくなった単語を、かろうじて拾い上げる。
「しゃ、借金……?」
「俺の取引がだいぶ強引だったからな。かなりふんだくられた」
「それって、もしかして、
イルケトリは当然のように「そうだ」と頷く。ラッチェンスの名で脅したのなら、賄賂は必要ないのだと思っていた。はからずとも不正の現場を目撃してしまった。しかも原因はエミリーだ。
「え、じゃあラッチェンスは? 働いてないの?」
「働いてない。今は『ミス・ドレス』のオーナーだ」
「昔働いてたってこと?」
「知りたいか?」
イルケトリの表情が艶を帯びた笑みに変わる。エミリーは本能的に体を引こうとしたがイルケトリの腕に手をかけたままだったので、近付かれるほうが早い。あごをつかまれて、間近で目を合わされる。
「秘密だ」
熟れた花と、重く甘いバニラの香りがした。流れる前髪のあいだからのぞく瞳は楽しげに細められていて、橙色の欠片を封じこめたエメラルドのようだった。
「ちゃんと返してもらうぞ。体でな」
一気に体が、首筋が、頬が燃えるように熱くなる。こんな変態的なせりふでも、悲しいかな素直に反応してしまう。ただし今はそれが半分で、残りの半分はただの恐怖だった。
ラッチェンスとつながりのある、魔飾を作らない装縫師。もしかして、思ったよりやっかいな人物と関わってしまったのかもしれない。
これから先、どうなってしまうのだろう。エミリーは悲鳴を上げながら、思いきりイルケトリをつきとばした。
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