1話 運命の王子様(7)

 警察署から出ると、ガス灯のそばにイルケトリが立っていた。陽は傾いていて、焼けるような橙色が、大通りの人波を、石畳の道を、イルケトリの半身を染めていた。

 エミリーは何を言えばいいのか分からず、立ち止まった。考える暇もなく、イルケトリが近付いてきて、腕に手をかけさせられる。

「そこで立ち止まるな」

 導かれるがまま、警察署から少し離れた小道に入ったところで、腕を解かれた。

 向かい合ったイルケトリの髪が、頬が、シャツが橙色に溶けて、ただ綺麗だな、と思った。

「明日から俺のところで働いてもらう」

 エミリーはイルケトリを見上げて、叫びそうになってしまった。

「あれ本気だったの?」

「ああ言った以上、お前がほかのところで働いてるのを見つけられて、また逮捕されると困る」

 イルケトリの言葉を理解して、エミリーは自分の浅はかさにようやく気付いた。

 マスカルではもう働けないのだ。身に覚えがないとはいえ問題を起こしてしまったし、オーナーのポーラが働き続けていいと言ってくれたとしても、見つかれば装縫師の資格を持っていないからまた逮捕される。そしてなぜイルケトリのところで働いていないのかと、イルケトリまで問いつめられてしまう。

「そんな、でも急に……リボンはしまっておいて遠くの街で働けば」

「だめだ。助けたからには従ってもらう」

 思いがけない強い口調に、エミリーは体がすくんだ。有無を言わせない態度が引っかかって、口を結ぶ。今までの紳士的な態度とは、どこか違う。

「そもそもあなたが警察に言ったんじゃないの? なのに何で助けたの? 自業自得じゃない?」

 イルケトリはけげんな顔をした。

「何の話だ?」

「あなたがあたしのリボンが魔飾だって、無資格だからって密告したんでしょ? そんな話あなたとしかしてない」

 疑念の目を向けてくるイルケトリに負けないよう、エミリーは眉間と閉じた唇に力を入れる。

 やがてイルケトリは力が抜けたように視線をそらして、納得したような声をもらした。

「そういうことか。俺じゃない。俺はお前が無資格だって知ってたのに黙ってたってことで警察署に連れてこられたんだ」

 エミリーが眉をひそめて首を傾けると、イルケトリは気を取り直したようにエミリーを見つめる。

「いいか? 俺は言ってない。ほかの誰かが俺とお前のことを警察に言ったんだ」

「誰かって、誰が?」

「さあ。あの話をしてたときに聞いてた誰かじゃないか。人はたくさんいたしな」

 イルケトリと魔飾の話をしたのは、大通り沿いのベンチでパイを食べていたときだ。たしかに誰かに聞こえてしまっても不思議ではない。

「あなたじゃ、ないの?」

 思わず戸惑いとともに口にしてしまうと、イルケトリは仕方なさそうに息を吐いた。

「お前を捕まえて得することが何もない。断られた腹いせに密告するほど落ちぶれてない」

 たしかに、エミリーを捕まえたかったのなら助けないだろう。

(じゃあ、本当に)

 イルケトリではないのだ。

 エミリーは頬が熱くなった。恥ずかしさと申し訳なさから目を合わせていられなくなって、視線をさまよわせる。

「ご、ごめんなさい……」

「別に、分かればいい」

 イルケトリの声は平坦で、あきれているのか本当に何とも思っていないのか分からず、いたたまれなくなる。

「明日の朝七時、アージュハークの馬車乗り場にいろ。迎えに行く。店は住みこみだから今日中に準備しておけ」

 エミリーは思わずイルケトリを仰ぐ。

「住みこみって、そんな、行かないとだめなの?」

「自分の身を自分で守れる自信があるのか?」

 イルケトリは呆れても怒ってもいなかった。ただ、その言葉はエミリーに突き刺さる。

 でも、それでも、遠くの街で働けば。そう言おうとして、気付いてしまった。

 遠くで働くなら、居候させてもらっているポーラの家を出なければいけない。知らない土地で住むところを見つけて、ひとりで仕事を探すのだ。ポーラとも、ラナとも、顔なじみの客とも、マスカルとも離ればなれだ。

 ポーラは情に厚いから、居候したまま勤め先まで通えばいいと言ってくれるかもしれない。けれど、好きな人にこれ以上迷惑をかけたくない。

 遠い街で働くのも、イルケトリの店で働くのも、大切な人と場所と別れなければいけないのは、同じなのだ。

「分かり、ました」

 あの宝箱のような店にもう二度と立てないのだと思うと、胸がしぼられるように痛んだ。けれどイルケトリにまで迷惑をかけてはだめだ。むしろ住むところも仕事もあるなんて恵まれすぎている。装縫師は苦手だが、文句を言っている場合ではない。

「しばらくして落ち着いたら帰してやる。それまで辛抱しろ」

 イルケトリの態度は高圧的ではなく、視線をそらしていてなぜか罪悪感を覚えているように見えた。

「あ、いえ、むしろ雇ってもらって感謝しないといけないのに。よく考えたらあなたはあたしを助けなくてもよかったのに、助けてくれた。巻きこんじゃってごめんなさい」

 離れたくない思いでいっぱいで自分本位になっていたが、イルケトリは善意でエミリーを助けてくれたのだ。助けられていなかったら、エミリーは刑務所に入れられていただろう。今後どうするかどころの話ではない。

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