1話 運命の王子様(3)
「じゃあ、お先に失礼します。また明日」
「はい。お疲れさまです。気を付けてくださいね」
ラナがカウンターからにこやかに手を振ってくる。エミリーは手を振り返すと、藍色に沈んだ裏通りへ出た。
(暗くなるの早くなったなあ)
思わず口に出しそうになったのを、すんでのところでとどめる。九月も終わりに近付いてきて、夜は手首や首元が少し寒い。店先の吊りランプから離れると、すぐに両脇の建物と空間の黒が同化して足元が見えなくなる。見上げれば、建物を黒いシルエットで描いたような藍色の空に、星くずが現れ始めていた。
時刻は午後七時すぎ。今日は朝からシャーメリーに行くと決めていた。新作も着てきたし、売り子に見せに行きたい。シャーメリーにはもちろん服を見に行くのが目的なのだが、すっかり仲良くなった売り子と、服の話やとりとめのない話をするのも楽しみのひとつだった。
シャーメリーのある首都コムセナまでは歩いて三十分。乗合馬車を使えば速いのだが、節約のためいつも歩いて行くことにしている。
弾む気持ちに合わせて足取りも軽くなり、自然と歩みも速くなる。裏通り最後の吊りランプを通りすぎると、目の前が光で開けた。
アージュハークの大通りは裏道とはうってかわって、光と、人にあふれている。一定間隔に並んだガス灯は石畳の通りに柔らかな光を投げかけ、服飾店のガラス窓の向こうには華やかなドレスが浮かび上がり、しゃれた飲食店の店先にある吊りランプには炎が
日も暮れたというのに通りには人の波といえるほど、人々が行きかっている。着飾った街娘のふたり組、ウエストコートに帽子をかぶった青年と、手を繋いで歩く街娘の少女。人の波を割るように、時折馬車が通りすぎていく。首都コムセナまでの道も人通りが多いので、エミリーも歩いて行くことができるというわけだった。
エミリーは服飾店のガラス窓を横目で見ながら、人波に乗った。どこからかおいしそうな甘い香りが漂ってくる。屋台で焼いているパイだ。アージュハークにはパイの屋台がたくさんあって、エミリーもよく食べる。
買って、食べながら歩こうか。そう思ったとき、エミリーの横を誰かが追いこしていき、少し前で振り返った。一瞬、客引きかと思った。前にもそういうことがあったのだ。
またかと思った直後、思考が止まった。
「こんばんは。お嬢さん」
薄い色の髪がガス灯の
昼間の、不可解な言動の男性だった。
立ち止まってしまったエミリーに、後ろから来た人がぶつかる。バランスを崩しかけたところを、男性に腕をつかまれて、支えられる。
「こっちへ」
何の気負いもなく腕に手をかけさせられて、人混みからかばわれながら、道の端へ導かれていく。まるで物語の令嬢のような扱いをされて、勝手に鼓動が高まった。途端、我に返る。
アージュハークの広さと人混みで、偶然再会して声をかけられるなど、ありえない。人違いかとも思ったが、こんなに目を引く男性はそうそういないし、何よりウエストコートに入ったつる草の刺しゅうを、よく覚えている。ということは、答えはひとつしかない。
(待ちぶせされて、つけられて、た……?)
人混みから道の端へ抜けて、男性が振り向く。
「いきなり声をかけて悪かったな……って、待て!」
エミリーは手を振りほどいて走り出そうとした。けれど腕をつかまれて、
「何で逃げる」
(逃げるに決まってるでしょうが!)
エミリーは震えを押しこめながら身構える。いくら容姿が人並外れてよかったとしても、待ちぶせされていたのだとしたら怖い。
『でももしかして、もしかすると運命の王子様かもしれませんよ?』
こんなときになぜかラナの声が
大声を上げようと構えて、ふと気付く。男性が、困惑している。なぜ逃げられたのか分からない、とでも言いたげに
エミリーまで戸惑って、まさかと思い至る。この人は見た目がよすぎて誘いを断られたことがないのではないか、と。
「あの……な、何のご用ですか」
やっと声をしぼり出すと、男性は「ああ」と思い出したように声をもらす。
「そんなに怯えるな。誘いじゃない。注文服屋の勧誘だ」
「はい?」
エミリーが首をかしげると、男性は考えるように目をそらして、つかんだままだったエミリーの腕を引いた。エミリーは抵抗もできないほど訳が分からず、男性に従って歩く。
「少し待ってろ」
そばにあったベンチにエミリーを座らせて、男性は隣にあるパイの屋台へ行ってしまった。今なら逃げられる、と気付いたが、どうも男性がパイを買っているように見えて、立ち上がるのに迷いが生じる。
戸惑いが上乗せされているあいだに男性が戻ってきてしまった。案の定、パイの包みを持っている。しかも両手にだ。
「チョコレートとカスタードどっちがいい?」
「いえ、あの、困ります」
「どっちも嫌いだったか?」
「いやあのそうじゃなくて」
いきなり訳の分からないことを言われて連れてこられて、パイを渡されても、困る。
男性は不思議そうな顔をしていたが、思いついたように声を上げる。
「別にパイを受け取ったからって、恩を売ったりしない。もう仕事中じゃないだろ。受け取れ」
男性は柔らかい表情をしていた。何と言って断ればいいのか分からなくなる。
「じゃ、じゃあ、払います」
エミリーがバッグから硬貨を出そうとすると、小さな笑い声が降ってきた。
「こういうときは素直に受け取れ。そのほうが可愛げがある」
男性がからかうように笑っているのを見上げて、頬が熱くなる。
「よ、余計なお世話です!」
「そうだな。どっちがいい?」
男性がパイを差し出してきた。断るどころか完全に男性のペースに巻きこまれている。パイを受け取るまで諦めてくれそうにない。
「じゃあ、カスタード」
男性は満足そうに微笑むと、パイを片方渡してエミリーの隣に座った。知らない人から食べ物をもらってしまったが、エミリーもよく食べる屋台のパイだし、逃げようとして逆上されても怖いので、いったん様子を見ようと心の中で言い訳する。
「あ、ありがとうございます。いただきます」
赤いチェックの紙に包まれたパイを、一口かじる。焼き色のついたパイは温かくて、ふんわりと至福が体に染み渡る。空腹に急いで飲みこんでしまいたくなるのを抑えて、ゆっくりと甘さを味わう。
「おいしいです」
「そうだな。食べると大抵の心配事はどうでもよくなるからな。甘い物は特に」
男性はパイを口に運ぶ。食べるその仕草や先ほどの人混みでの振るまい、言葉の発音からして上流、少なくとも中流上位階級以上ではありそうなのだが、そんな人でも屋台のパイを食べるのか、と思った。庶民に紛れるのが好きなのだろうか。それとも甘い物が好きなのか。
目が合ってしまって、エミリーは戸惑いと気恥ずかしさでいっぱいになった。男性がどこか含みを持った顔で、笑う。
「こっちも食べるか?」
男性がかじりかけのパイを差し出してくる。断面から、つやつやしたチョコレートのクリームがのぞいている。
「食べません! 何言ってるんですか!」
「そうか」と男性は不思議そうに手を引っこめた。先ほどもそうだったが、断られるのがなぜだか分かっていない様子だ。確実に、女性から自分がどう見えるのか分かってやっているのだ。あながち間違いではないのでたちが悪い。
男性は今度は含みのない微笑みで見つめてくる。
「遅れたが、イルケトリ・クリムアだ。婦人向け注文服屋『ミス・ドレス』のオーナーだ。イルキでいい」
名前も姓もナパージの国ではかなり珍しい響きだった。
注文服屋とは顧客のサイズやデザインの要望に沿って、一着ずつ服を仕立てる店のことだ。貴族や、大商人しか利用しない。注文服の値段は安くても既製服の百倍はするからだ。エミリーのような庶民は、工場で縫われた既製服を着る。
それにしても、イルケトリはせいぜいエミリーより少し年上にしか見えない。この若さでオーナーとは、本当だろうか。
エミリーが頭の中に大量の疑問符を浮かべていると、イルケトリは首をかしげて緩やかに笑みを浮かべる。
「名前は? お嬢さん」
大抵の女性を惑わすであろう微笑みに飲まれかけて、エミリーは慌てて体に力を入れる。偽名を使おうと思ったが、動揺していて浮かばなかったのと、何だかんだで紳士的なところを踏まえて、諦めた。
「エ、エミリー・ローズドメイです……あの、待ちぶせしてました、よね?」
「そうだな。お客に閉店時間を聞いて、あのくらいだろうと思った」
閉店時間を聞かれた女性客はさぞかし喜んで教えたことだろう。恐ろしい。
「それで、ローズドメイお嬢さん。お前を俺のメゾンで縫い手として雇いたい」
言われていることの訳が分からなすぎて、エミリーはひとつひとつ分解していく。
『お嬢さん』は未婚の女性につける敬称だ。私的に、異性にそんなかしこまった呼ばれ方をされたことなど、多分ない。当たり前のように呼ばれて、恥ずかしさでそわそわする。
『メゾン』というのは高級な注文服屋において『店』と同じ意味だ。なので『俺の店に』ということだろう。そして『縫い手』とは服を縫う人のことだ。
けれど、エミリーは服など作ったことがない。
「あの、とりあえずエミリーでいいです。そ、そういうふうに呼ばれるの慣れてないので」
「じゃあエミリー。お前を縫い手として雇いたい」
「いや、あの意味が分かりません。何で突然? あたしは服なんか作れないですし」
イルケトリが柔らかく、艶やかに微笑む。
「お前が
装縫師。久しぶりに聞いたその単語に、エミリーは思いきりいぶかしい顔をしてしまった。
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