1話 運命の王子様(2)
「ありがとうございました」
ドアの外で女性客に品物を渡し、エミリーは女性の後ろ姿を見送った。店内に戻ると、またラナとふたりきりだ。
都市部にあるとはいえ小さな店なので、日曜日でも客足は緩やかである。経営は大丈夫なのだろうかといつもどおり余計な心配をしつつ、エミリーはラナのいるカウンターへ足を進める。
作業の合間に先ほどの髪形の話でもしようと思ったとき、けたたましいベルの音が鳴り響いて、飛び上がった。ドアのほうを振り返る。
ベルに、吐息が混じる。
まっすぐだけれど、ところどころくせのように跳ねたミルクティー色の髪。ネコのように切れ長の、見開かれたエメラルドの瞳。肌はうっすら赤みをまとった滑らかな白で、唇は薄く開かれている。
白い高襟のシャツに、金の鎖で飾られた黒のネクタイ。金糸で、東南めいたつる草模様が刺しゅうされたネイビーブルーのウエストコート、チャコールグレーのズボンに、磨きこまれた艶を放つ茶色の革靴。
まるでおとぎ話から抜け出してきたような、異国の王子めいた男性が、立っていた。
「あ……いらっしゃい、ませ」
エミリーはようやく思考を取り戻す。ただごとではない様子で駆けこまれて放心していたのと、単に見とれていたのと半分半分だった。
男性は目を見開いたままエミリーを見つめて、動かない。
「な、何かお探しですか?」
男性はやっと気付いたように「ああ」とエミリーから視線を外す。
「知り合いに似ていて……勘違いだった。すまない」
伏せられた瞳はどこか憂いを帯びているようだった。声は張りがあって、艶めいたものを含んでいて、エミリーは場違いながらも鼓動が速まりそうになる。
ふと、そらされていた男性の瞳がまたエミリーを捉えて、驚いたように一点に止まる。エミリーは思わず身構えていた。
「あの、何か?」
「ああ、いや、すまない。そのリボン」
男性は自分の頭の右側を指差した。エミリーは一瞬考えて、自分の左耳の上につけた赤いリボンを指差して首を傾ける。
男性の表情が鮮やかに変わる。優美な、けれどどこか艶のある笑みを浮かべる。
「綺麗な色だな」
色気さえ感じる笑みに、勝手に鼓動が跳ねていた。けれど深い意味などないのだろうと、戸惑いつつも礼を言おうとしたとき、男性が口を開く。
「手作りだろ」
声が喉で止まった。そのまま、言おうとしていた言葉が喉を落ちて消えていく。
たしかに、エミリーがつけている赤いリボンのコームは、数年前初めて手作りした服飾品だった。初めてということもあって角のひっくり返し方が甘いなど反省点もたくさんあったが、思い入れが強く、今も気に入ってよくつけている。
どうして、分かったのだろう。
「あの……何で分かったんですか? 雑だから、とか?」
思わず尋ねてしまっていた。男性の微笑みに挑発的な色が混じる。
「そういうわけじゃないが……そうだな。知りたかったら、今夜どうだ? 食事でも」
エミリーは何を言われたのか分からなかった。わずかな時間のあと、首筋が熱くなった。
これは、お誘いというものだろうか。いや、ただの冗談だろう。真に受けてはいけない。そして今さらながら、やはり客ではなかったとかみしめる。
「いえ、そういうのは、お断りします。仕事中ですので」
動揺を悟られないよう、なるべく
男性はあっけにとられたようにまばたいて、小さく吹き出した。
「そうだな。悪かった。では、失礼」
男性は胸に手を当てて華やかに微笑すると、ドアのほうへ足を向けた。そのまま振り返ることもなく、あっさりと店の外へ出ていった。
ドアベルの音だけがいつもと同じ調子で店内に響く。エミリーはまだ状況を飲みこめていない頭を感じながらドアを見つめていた。
「何だったの……夢?」
思わず口に出してしまった。そうしてしばらく昼の日差しが降り注ぐドアを眺めていたが、意味がないことに気付いて店内へ体を反転させた。
「あああエミリーさん! 大丈夫、大丈夫ですかあ!」
ラナが悲痛な声とともにカウンターから飛び出してきて、エミリーは思わず飛びのいて悲鳴を上げていた。
「何、どうしたの!」
「無事ですか! ていうかあの人知り合いですか!」
ラナの今にも泣き出しそうな表情を見て、ようやくエミリーは思い至った。
「ああ、怖いんだっけ。男の人」
マスカルにはめったに男性客が来ないので、忘れていた。一言も
「ああすみません……すごく遠くからそっと眺めてるだけなら平気なんですけど、むしろずっと眺めてたいくらい綺麗な人でしたけど……知り合いなんですか?」
「いや、知らない人だけど」
あの容姿なら、一度会えば忘れないだろう。
ラナは唇をわななかせて、さらに悲壮感を顔いっぱいに広げた。
「じゃあ、あれはやっぱり、お誘い……! だめです! エミリーさん! 危険です!」
ラナがエミリーの両肩をつかみ、体を思いきり揺さぶってくる。受け答えを間違えたなとエミリーは揺さぶられるなか、後悔した。
「落ち着いて、大丈夫だから。危険は去ったから」
エミリーはどうにか両肩からラナの手を外し、ラナの肩を
ラナはようやく落ち着いてきたようで「そうですね、すみません」と肩をすぼめていたが、急に何か思いついたように顔を上げた。
「もしかしてエミリーさん、『すごく格好いい人に食事に誘われちゃった! どうしよう!』って思ってました?」
なぜか先ほどまでの
「いや、えっと……それはないけど」
「でもすごく、すっごく綺麗な人でしたよね」
この発想の転換は何なのだろう。ラナの頭の中がどうなっているのか、エミリーにはいまだに分からない。
「あのね。たしかに綺麗だったけど、社交辞令、というか冗談でしょ? 何かちょっと変な人だったし」
エミリーはラナの両肩をつかんで諭した。ラナはようやく諦めたように頷く。
「エミリーさん、世の中を見据えてますね。偉いです」
「いや、見据えてるというか本気にする要素がないでしょ」
ラナは諦めたふりをしていただけだったのか、食い下がるようにエミリーをのぞきこんできた。
「でももしかして、もしかすると運命の王子様かもしれませんよ?」
運命の王子様。たしかに見た目は異国の王子然としていたが。
エミリーは思いきり吹き出した。
「ない。それはない。絶対にない」
首と同時に手も振って、エミリーは背中越しにラナの不満そうな声を聞きながら、カウンターに歩んだ。
たしかに男性の立ち居振るまいや発音は綺麗だったので、もしかするとお忍びの貴族だったのかもしれない。庶民に紛れるために帽子と上着、ステッキに手袋まで置いてきたのか。それか、ウエストコートに入っていた金糸のつる草模様が異国めいていたので、異国の王子というのもあながち間違いではないかもしれない。
艶を持って細められた目は、しなやかなネコのようだった。肌は白いけれど、昔絵本に出てきた砂漠の王子を連想させた。
目を奪われる、夢のような、おかしな男性だった。
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