嬰児トンネル
基本的に、私は目で見聞きしたものしか信じない。
当然、心霊写真や心霊動画、怪談に至るまでのホラー系の話など取るに足らぬものだと思っているし、そもそも何かが写りこんでいたとしてもそれはほぼ例外なく何らかの光のちらつきや見間違い、あるいはシミュラクラ現象による誤認でしかないと考えている。科学とは絶対ではないが、少なくともこの世の中に、不可思議な現象などというものはなく、すべてに何らかの理由があるのだと、私はそう思っている。
そんな私も、一度だけいわゆる「怪奇現象」というものに遭遇したことがある。それについては私の先述したような意思をもってしても説明をつけることが出来ず、未だに頭の片隅に引っかかり続けている、嫌な記憶だ。
あの頃私は小学校の教諭をしていた。当時私が受け持っていたクラスに、何やら定期的に体調を崩して保健室に行くこととなる生徒がいた。それ自体は別に不思議な事ではないが、その子の親御さんの話によれば、普段は活発そのもので、風邪などまず引くことはなく、学校がない日は基本的に元気を持て余しているほどだという。
それならば学校が原因なのかとも考えたが、どうやらそうではない。ある程度休むと回復し、それ以降は友達と楽しく過ごしているようだし、リーダー的体質もあって皆を引っ張っていくような子だ。授業態度も決して不真面目ではなく、成績だって悪くはない。だから学校が嫌であるとか、勉強が嫌であるとかではない理由が何かあるのだろうと、私はずっと考えていた。
そんなある日、他のクラスの担任と話していると、どうやら私のところのその生徒と同じように、朝体調を崩す子がいるのだという。その話が職員室で出たとき、あ、うちにも、私のクラスにも、ということで、数人の子供たちの名が挙がった。そこで気づいたのは、その子たちはみな、他の大多数の生徒とは違う、別の通学路から通学している子たちなのである。
あの学校は山を背にして建っているのだが、大体の集落というか、人が住む場所はみな学校から見て正面側にある。しかし、区域の割り振りの都合で、学校の裏手にある集落からくる子供たちがいる。朝体調を崩すという子供たちは、皆そちらから来ているのだ。
不思議に思って、私のクラスのその子に話を聞いてみると、何やら道中に指定されているトンネルが怖いのだという。特に雨の日はひときわ怖くて、学校に来るまでの足取りがとても重く、結果として体調を崩してしまうのだという。言われてみれば、彼が体調を崩すのは必ず雨の日であるし、他のクラスの担任達に聞いても、同じように雨の日に決まって体調を崩すのだという。
「たくさんの赤ちゃんが、怖い」
そんな不思議な事を言っていた生徒もいた。それを聞いて、私と、数名の先生が放課後にそのトンネルとやらに行ってみることにした。
トンネルは、学校から数百メートルほど行ったところにあった。
幹線道路の下を潜る歩行者用のトンネルで、普通に考えたら小学生に歩かせるにはリスクがありそうな環境であったが、そのすぐ手前に交番が、トンネルの反対側にはお寺があり、治安上の問題はそこまで高くなさそうであった。
夕方ではあるが何やら薄暗く、純粋に不気味な場所であると感じた。他の先生方は何やらぼそぼそと学校の愚痴をこぼしながら歩を進め、狭い階段を下った先のトンネルの前に立った時、私より先を歩いていた数人が、ぴたりと足を止めた。
「これは……」
何やら、見てはいけないものを見てしまったかのような、押しつぶされたような声を上げる。私からはまだ何も見えないが、何か恐ろしいものがあったのだろう。
「なんですかね……この無数の落書き」
「これ……赤ん坊の顔かな。……それも、すごい量」
「壁一面に赤いペンキで……、すごいリアルですね。誰だろう、こんな悪戯をしたのは」
話を聞いているだけで、不気味さ極まりない。赤いペンキで、一面にリアルな赤ん坊の落書き。幽霊や妖怪の類など全く信じない私からしても、そんな不気味なトンネルを通ったら、それは精神を病みそうだ。他の先生方がなかなかトンネル内に入ろうとしないので、私はその横をすり抜けるようにして階段を降り、その小さなトンネルを覗き込む。
「市に連絡して、壁をちゃんと綺麗に塗りなおしてもらったほうがよさそうですね。こんな不気味な落書き、誰だって気持ち悪くなりますよ」
先にトンネルを見ていた一人の先生がそう呟く。しかし、私はそれ以上にこのトンネルに、言い表しようのない不気味な感情を抱いていた。否、不気味という生易しいものではない。純粋な恐怖が、私を支配していた。
赤いペンキで塗られた、赤ん坊の顔の落書き、それは確かにすさまじく恐ろしい。しかし私が見てしまったのは、それ以上に恐ろしい、自らの精神が狂ってしまったのではないかと思わざるを得ないほどの現実だった。
「……通学路を変えたほうがいいと思いますよ」
私の言葉に、他の先生は難しそうな表情を浮かべる。
「しかし……ここ以外となると、1キロくらい先にある歩道橋を渡らなくてはいけないので、それはさすがに児童の負担が……」
「そうですよ。だからもし市が対応できないなら、私たちで塗り替えても……」
「無駄ですよ」
私はそう断言する。
「どれだけ塗り替えても、意味がない。それは確実です」
「え……? それはどういうことです?」
「こういうことですよ」
私は震える手でスマートフォンのカメラを起動し、トンネルの写真を撮影する。そしてそれを他の先生方に見せると、皆恐怖に震えあがった。
トンネルには、落書きなど一切ないのである。
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