首にかけた手を、ゆっくりとほどいてゆく。動かなくなった目の前の男は、不快な質量をもったままにこの虚無の空間に存在している。私は小さく息をつき、自らの行動の結果を一瞥する。

 この男は実に無能で、何をするにも要領が悪く、それでいて自らの非を決して認めようとはしない。誰かに助けを受けたとしてもそれに感謝することさえせず、誰かに迷惑をかけたとしてもそれを反省する素振りすら見せない。この男と関わった人間ならば、安易にこの男に関わったことを必ずや後悔するであろう。

 果たしてこの男は私が手を下さず生き続けていたとして、後にこの世の中の為になることがあっただろうか。否、それは有り得ないだろう。この男は存在することで、この世の善を食い潰し、無価値に消費していくのだ。ならば私がこうして手を掛けたことで、消費されてしまう善人を一人でも救えるのではないだろうか。そう考えると、自分が行ったこの行為が実に正当なもので、許されるどころか称賛されてもよい行為なのであると、私は一つ、自分の中でそう納得した。

 この虚無の空間において、存在は私とこの男の二人だけだ。否、一人なのかもしれない。今生きているのは私だけであり、目の前の男は既にこの世のものではない。愚かな行為を繰り返してきた男の動きを止めた抜け殻がそこに横たわっているだけである。これはもう、生き物ではない。

 私はささやかな満足感と共に、新たな世界への門出に対する期待と興奮を感じていた。私はもはや過去に他の人間から認知されていた私ではなく、それとは全く違う、要領がよく、自らの非を直ぐに正し、そして周囲への配慮を怠らず、誰にも愛される人間となるのだ。誰も私を裁くことはできない。私は唯、愚かな存在を消し去り、正しい道を歩むことを選択したに過ぎない。それを邪魔する権利は誰にもない。私は、今日を以て私になるのである。

 じきに夜が明ける。私は二十余年の間私であった男の亡骸を一瞥し、ゆっくりと目を閉じた。もう嘗ての私はここにはない。今日からは、私が「私」なのだ。

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