幽霊画

 祖父から幽霊画の掛け軸を譲り受けてから、もう1年になる。正確に言うと譲り受けたわけではない。一人で暮らしている祖父の家の老朽化がひどいということで、その修理などをするためにといろいろな荷物を私の家で受け入れた直後、祖父が心臓発作で帰らぬ人となり、荷物だけが我が家に残ったのである。

 もともと色々なものを溜め込むようなタイプではない祖父の性格上、受け取った荷物はそれほど多くはなかった。必要最低限の家電、数本の時計、何冊かのアルバム、そして、1本の掛け軸であった。家電は早々に売り払ってしまったが、時計は息子たちがそれぞれに形見分けとして持っていき、我が家にはアルバムと、掛け軸だけが残された。その掛け軸も、箱はかなり古そうで骨董店にでも持ち込んだら高値で売れそうなものであったが、我が家の床の間に掛かっていた掛け軸は一番上の息子が中学生時代に書いた書き初めを適当に掛け軸化したもので、あまり見栄えの良いものでもなかったので、せっかくだから、と掛けることにしたのである。

 もともと私は幽霊などというものを信じるタイプではないし、どんなホラー映画でも驚いたことはないほど、肝の据わった、悪く言えば感受性のない人間であった。故に、おどろおどろしい幽霊が描かれたこの掛け軸も、古き良き日本の伝統だな、という程度の印象であり、これが床の間でぼんやりと月明かりに浮かんでいても何ら不気味に感じることはない。むしろそれでこそ幽霊画であり、それでこそ価値のあるものなのだと思っている。よく幽霊画を掛けると不吉なことや怪奇現象が起きるなどという話もあるが、我が家においてはそれもまた無縁であり、日々の生活にほんのわずかな彩りが添えられたという程度の話であった。


 もっとも、妻からの風当たりは強い。私とは対照的に、妻は非常に憶病である。誰もいない部屋で何か物が落ちただけでも飛び上がりそうなほど驚くし、ホラー映画もテレビの心霊特集も絶対に見ようとはしない。元々妻は床の間のある部屋自体がなんだか不気味であるという理由で避けていたが、私が幽霊画を掛けてからというもの、一切寄り付かなくなってしまった。

 さて、その幽霊画であるが、おどろおどろしいとは形容したが、あまり意識せずに見ればただの美人画である。白装束の美しい女性が、仏のような静かな笑みを浮かべながら佇んでいるだけの、とてもシンプルなものである。私がこの絵を飾ろうと思った理由の一つは、この絵の美しさはさておき、この絵に描かれた女性が、妻にとても似ていたからである。画風こそ日本画そのものであるが、誰が見てもきっと、同じ感想を持つであろう。

 普通の人間の感性であれば、おそらくそれを不気味だと思ってこの絵を燃やしてしまうことであろう。しかし私は逆に、この絵は私の妻の美しさを永遠に残すために描かれたのではないか、とさえ思っているほどだ。逆に妻が寄り付かなくなった最大の理由は、妻に似ているから、である。

 確かに、自分の姿とそっくりな幽霊画が掛けられた部屋など近づきたくもないというのが一般的な感性であろう。しかし、最初はそれこそ嫌味のように掛け軸に対する不満を口にしていた妻も、徐々に慣れてきたのか、あるいは諦めたのか、その掛け軸についての不満を漏らすことはいつの間にかなくなっていた。とはいえ決して、あの部屋に近づこうとはしなかった。私が飛び出してきたゴキブリに大声で叫び声をあげたときでさえ、部屋の外から大声で呼びかけるばかりで、決して近づいてこようとはしなかった。

 実質床の間付きのこの部屋は、私が何かに行き詰った時にゆっくりと本を読むための、憩いの場となっていた。


「ご飯ができましたよ」

 今日もまた、私はこの部屋で掛け軸を背にして本を読んでいた。そこに妻がやってきて、いつも通りの笑顔を私に向ける。私は小さく頷いて、本に栞を挟んで傍らに置き、ゆっくりと立ち上がる。そうしてふと、私の脳裏には二つの、重大な、そしてここ数ヶ月心の深いところで感じていた小さな疑問が、確信となって浮かんできた。


 今、背後の掛け軸から感じる妻の気配は、いったい何なのだろうか。

 そして今私の目の前にいる女は、いったい誰なのだろうか。

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