左折禁止

 不思議な看板を見た。私がここに引っ越してから一番最初の日曜日、土地勘を掴んでおこうと、のんびりと車を走らせていた時のことである。家の裏手にある細い道の途中、丁字路に「左折禁止」の看板が、しつこいほどに並んでいた。

 別にそれ自体を聞くと何ら不思議な事ではない。その道の先が隘路であるとか、スクールゾーンであるとか、あるいは生活道路であるとか、そういうことは普通に考えられるし、あるいは単純に一方通行路出口の可能性だってある。しかし、私が不思議な看板と形容したのは、そういう普通の考えによって解決される状況ではなかったからである。看板は丁字路のうち、直進ルートに書いてあるのだ。そしてそのルートから分岐する道は、右方向にしか伸びていないのである。

 私は一瞬、もともと道があって、そうして今は失われてしまったので看板だけが名残となっているのかと思った。しかしそのまま看板の前を通過したとき、そうではないことが明確になった。なぜならその片側はコンクリートで舗装された崖であり、トンネルがあった形跡もなければ、細い道などがあるわけでもない。そうしてその看板自体も、まるでつい先日置かれたかのような新しさであったからである。

 看板が一枚であれば、置くべきものを間違えたのであろうと推察できる。しかしこの場所はそうではない。「左折禁止」と書かれた看板が、すべて同じ向きで、数枚、あるいは十数枚並んでいるのである。そして看板自体も、もう数十年は経つであろう朽ち果てた看板から、つい先日設置されたであろうほぼ新品の看板まで、いろいろにあるからである。

 その時は妙な看板だなあという程度の違和感を持っただけで通り過ぎたが、後々、この道は引っ越し後の勤務先へと通勤する際の近道になることが分かった。そうして毎日通っていると、その不思議な看板に慣れてしまうどころか、ますますこの理由が気になって仕方がなくなってしまったのである。


 それからしばらくして、仕事帰りの私は、職場に財布を忘れてしまったことに気づいた。時刻はもう夜の十時、この時間から引き返しても施錠されてしまっている可能性もあるだろうが、今日は金曜日、財布のないままに土曜、日曜を過ごすというのはさすがに問題であった。私は仕方なく例の丁字路を過ぎたところのコンビニでUターンして、改めて例の丁字路に差し掛かる。

 夜中に見ると、ありもしない左へ曲がることを制約する看板の群れは不気味なことこの上なかった。ヘッドライトの明かりに照らされてぼんやりと浮かぶ看板たちは、まるで意思があるかのように揺らめき、私にこちらへ来いと呼びかけているかのようにさえ感じた。

 そうして看板の前に差し掛かった時である。私は自分の意志とは無関係に、ハンドルを左に大きく切っていた。ぶつかる、そう思ってぐっと目を閉じたが、車はまっすぐに走り続けている。目を開けてみると、明らかに崖しかなかったはずなのに、車幅ぎりぎりの細い道が、ずっとずっと続いていたのである。

 私は背筋が寒くなり、慌ててブレーキを踏んだ。しかし、Uターンしていつもの道に戻れるだけの隙間はない。私はやむを得ず、そのままギアをバックに入れ、ゆっくりと後退する。気づいたのが早かったので、いつもの通りに出るまでにはわずか十数秒であった。途中若干車の尻を岩の壁に擦り付けたような気はしたが、そんなことはどうでもよい。ないはずの道に入ってしまった恐怖は、そんなことなど一切気に留める余裕を与えてはくれなかった。

 私はそのまま、逃げるようにその道を走り去り、職場へと向かった。幸いまだ残業している者がいて、施錠されているのではないかという心配は杞憂に終わった。財布はやはり、ロッカーの中に落ちていた。


 あれ以来、私はあの道は一切通っていない。もしあのまま直進していたら、いったいどこに連れていかれてしまうのだろうか。あるいは、あれはただの夢だったのであろうか。

 その真相はわからない。しかしあれ以来、私は家に引きこもるようになってしまった。なぜならあれ以来誰に話しかけても誰も反応を返してくれないし、コンビニでも、スーパーでも、誰も私に反応してくれず、日常生活を送ることが困難になってしまったからである。

 誰もが私を無視するのだ。まるで、私のことを幽霊だと思っているかのように。

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