迎えられぬ明日

 気圧が下がってきたのが、ひどい頭痛と全身の倦怠感によって感じられた。明日は朝から晩まで雨が降り続き、風も相当に強いらしい。当初予定していたツーリングは当然中止、せっかくの週末だというのに、どうやら家で布団に包まって過ごすことになりそうだった。

 仕事から帰ってきて、3分で作れる適当な食事をビールと共に胃に流し込み、黴だらけのバスルームで適当にシャワーを浴び、そして敷きっぱなしの布団に身体を押し込む。私の望んだ大人の在り方は、決してこうではなかった。しかし悲しいことに、今の私はかつて望んだ大人とは対極の存在と成り果ててしまっている。唯一の楽しみは、中古で5万円で買ったバイクで友人とツーリングをするくらいのものだ。しかしそれも最近友人が忙しく、明日は珍しく予定が開くというので計画していたが、それがなくなってしまうと次は恐らく半年後だろう。

 コチコチと耳障りな音を立てる古い時計が、0時を告げる鐘を鳴らす。大分ズレているから、恐らく実際は11時50分くらいだろう。硬い布団に挟まったまま、私は目を閉じる。起きていても別にやることはない。ならばさっさと眠りに就き、身体を休めることが得策であろう。

 時計はいつまでもコチコチと音を立てている。祖父が遺していった30日巻の柱時計は、かなり長い間なんのメンテナンスもしていないが、今に至るまで順調に動き続けている。精度はよくないようで、月の頭に時刻を合わせても、月末には10分くらいはズレてしまう。確か、そろそろゼンマイを巻く日だ。しかし、如何せん頭が重くてそれどころではない。

 コチ、コチ、コチ――。そう思っていた時に、時計は唐突に時間を刻むのを止めた。恐らくはゼンマイがほどけきってしまったのだろう。しかし、それは今の私にとってありがたかった。こうも体調が悪いと、時計の音は非常に邪魔なのだ。

 静寂に包まれた部屋、私はほどなくして眠りに落ちた。


 目を覚ますと、外はまだ暗かった。時計が示している時刻は0時3分。一瞬しか寝ていなかったかと思ったが、そんなわけはない。眠りに就く前に時計は止まっている。おそらくは2、3時間くらいは眠ったのであろう。机の上に置いてあるスマートフォンを見れば正確な時間が判るが、私はそれ以上に眠気の方が強かったので、そのまま再び布団を被った。どうせ時間を気にしたところで、明日は何も用事が無いのだ。いつまで寝ていても誰も文句は言わない。

 そうして、どれだけの時間が経っただろうか。再び目を開けると、相変わらず外は暗かった。時計は0時3分を指している。大分疲れも取れているし、恐らくかなりの時間眠ったのだとは思うが、この分だとまだ未明なのだろうか。眠気も覚めてきたので、私は机の上のスマートフォンを手に取り、時刻を確認する。


 スマートフォンの時計は、11時53分を示していた。


 どう考えても、それはおかしな話だ。24時間眠っていたわけがないし、それ以前に日付も私が寝る前のその日付に間違いない。眠っている以上、1分も進んでいないわけがない。こうして事態の異常性を認識している間にも、1分、2分と過ぎていくものだろう。しかし、いつまで待ってもスマートフォンの時計は進まない。操作して秒針を表示しても、秒針はぴたりと止まっている。

 不気味に思いながら、もしかして、と思い私は柱時計のゼンマイを巻き上げはじめる。コチ、コチと再び音が聞こえる。すると、それと同時にスマートフォンの秒針も動き出した。

 一体なんだというのだろうか。柱時計が止まっただけで、現実の時間が止まるはずはない。これは恐らく、夢だ。私はまだ夢の中に居て、不気味な空間に囚われている錯覚に陥っているだけなのだ。

 私はゼンマイをゆっくりと、ゆっくりと巻き上げていく。いずれにせよ、こうして時計のゼンマイを巻き上げてさえしまえば、再び私の時間は動き出し、朝を迎えられるのだ。ならば、どれだけ不可解な状況であっても、受け入れるほかないのである。


 バチン――ッ!


 そうしてゼンマイを巻き上げ続けていた最中、厭な音が聞こえた。振り子は勢いを失って静止し、コチコチという時計の音が止まる。慌ててスマートフォンを見ると、画面上の秒針は止まっている。窓を開けて外を見る。車が、交差点に差し掛かったところで不自然に止まっている。

 ゼンマイが切れてしまったのだろう。私は絶望感で吐きそうになった。時間が止まっている以上、時計をどこかに持ち込んで修理してもらう事も出来ないし、当然、自分で修理することもできない。無理に針を回してみたが、スマートフォンの時間は一秒たりとも進まない。

 これは、やはり夢なのだ。私はそう信じ、布団を被る。実際に時間が止まってしまうなどありえない。恐怖を感じつつも、ぐっと目を閉じ、何とか眠りに就いた。


 そうして、どれほどの時間が経っただろうか。もう何度眠りに就き、何度朝を迎えただろうか。否、実際は朝を迎えているわけではない。何時間、何十時間、いや、それ以上かもしれない。目を覚まし、再び眠り、そうして再び目を覚まし、それを繰り返しているだけだ。いつしか髭も、爪も、髪も長く伸びてしまっている。手にも皺が増え、だんだんと動かしづらくなってきた。

 しかし私のスマートフォンは、いつまでも11時53分を示している。

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