福の神

 あれは今から十数年も前の事だったか。

 当時、入院していた父の代わりとして、父が所有するアパートの管理人をしていた。管理人といっても特に特殊なことをする訳ではない。家賃の徴収や周辺の清掃、設備の管理と、あとは色々その時その時で入居者の対応をするくらいであった。

 四部屋のうち、埋まっていたのは三部屋。あとの一部屋は空き部屋で、数年前に一人暮らししていた大学生が卒業して部屋を出て行って以来、新たな入居者はなかった。父から出来るだけ早く埋めて欲しいと言われてはいたものの、当時まだ高校生だった私にそのような力も伝もなく、誰かが住みたいと問い合わせてくるのを待つばかりであった。


 そんなある日の夜遅く、その部屋に住みたい、という人が現れた。不動産屋を通じてではなく、その人は直接、我が家に来訪した。

 あの女性が我が家に来たのは、確か夜の十一時頃であったか。いくら何でも非常識ではないかと思ったものだが、大家という仕事を任されている以上仕方ないのだろうと玄関に出ていくと、その人は静かに佇んでいた。

「夜分に畏れ入ります」

 女性は頭を深く下げ、静かにそう言った。これから寝ようとしていたタイミングでの来訪で些か不機嫌であった私は、軽く頭を下げるだけで、それに特に返答はしなかった。

「前のアパートの1階、空き部屋ですよね?」

「あ、ええ。……そうですけど」

 今思い返せば相当失礼な小僧だったとは思う。しかし、夜遅くに堂々と来訪する非常識な人間に、こちらが常識的な態度で接する必要もないと思っていた私は、敢えて適当な態度で接していた。

「可能であれば、あの部屋を貸してはいただけませんか」

「え? ああ、もちろん大丈夫ですけど……」

「では、よろしくお願いいたします。契約に必要なものは――」

「いやいやいや」

 私は慌てて言葉を遮った。

「ありがたいんですけど、家賃の話もしてませんし、部屋の中も見てない状態で……良いんですか?」

「ええ。今すぐに、住む部屋が欲しいんです。お金に糸目は着けませんし、部屋がどんな状態でも構いません。とにかく、すぐに」

「はぁ……」

 それから父のメモを見ながら契約書をそのまま作成し、諸々の手続きの準備をした。掃除も何もいらないということで、その人はその日からその部屋に住み始めた。いろいろな申し込みや手続きはまだ残っているのだが、ひとまず「住む」ということについては大丈夫そうなので、受けていた説明とはだいぶ違う流れになったが、それは後で報告すればよいだろう、と気にしないことにした。何しろその一連の流れが終わったころには時刻は深夜の二時で、難しいことを考えている余裕などまったくなかったのである。


 その女性は、最初の来訪から入居までは非常識極まりない流れであったが、翌日以降の行動は常識的どころか、模範的ともいえるものだった。人柄も実によく、他の入居者への挨拶も早々に済ませ、三日も経つころには全入居者と仲良くなっていた。元々いた三部屋の入居者同士はそれほど仲良くはなかったのだが、その女性が住み始めて以来、それぞれに交流をもつようになった。私もその人柄に惹かれ、朝学校に行く前に会えばいろいろと世間話をしたり、困ったときに悩みを相談したり、とてもよくしてもらっていた。

 不思議なもので、彼女の来訪以来、私の周りには良いことが連続するようになっていた。入院していた父は驚くべきペースで回復し、予定よりもはるかに早く退院、大家としての仕事に即復帰した。父と離婚して連絡が取れなくなっていた母からも久々に連絡があって、再婚とまではいかないまでも、父と仲直りはしたようで、たまに三人で出かけるようにもなった。学業も絶好調そのもので、合格が危ういと言われていた志望校にも一発で合格することが出来た。いつしか私の中で、その女性は福をもたらす神だという位置づけにすらなっていた。


 それから大学に進学し東京に出てきて、それから私が就職した後も、その女性は父のアパートに住み続けているという。相変わらず順風満帆なようで、父はかなりの年になってきたが、入院以前よりもずっと元気だという。母ともこまめに連絡を取り合っているようだし、入居者も定着し、休日には頻繁に皆で遊んでいるらしい。つい先日も、入居者全員でバーベキューをしたとのことで、その時の写真を送ってきてくれた。

 そうして、私は全てを理解した。彼女は、ただの入居者などではないということが、その写真で判った。彼女はやはり、福の神だったのかもしれない。または、ただの不思議な存在だったのかもしれない。しかしいずれにせよ、彼女がこの世の人間でないことは、その写真から判断することが出来た。


 夏の日差しの中で笑顔で立つ入居者達と父。その中で彼女の足元にだけ、影がまったくなかったのである。

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