隠されていたもの
先日からの長雨で、築50年は経つであろうこのアパートには結構なダメージが蓄積されている。隣人は雨漏りに悩んでいるというし、我が家は雨漏りこそないものの、部屋の片隅の壁が水を吸ってふやけ、壁紙が浮いてきている。
正直私にとって、その程度の問題は些末な事であった。平均より極端に安いこの部屋の家賃さえも捻出するのが困難なのだ、住まいに関する贅沢など何一つ求めない。雨漏りがしたならば盥でも置けばよいし、壁が剥がれたなら段ボールの一枚でも貼っておけばよい。雨風がある程度凌げるのならば、私は別にそれ以上は求めない。
ただ一つ不気味だったのは、壁紙が浮いた場所が、まるで人の顔に見える、という事だろうか。正直それ自体はあまり驚きもしない。そもそもこの物件は事故物件であるし、怪奇現象の一つや二つあっても何らおかしくはない。とはいえ、私は怪奇現象というものをさほど信頼はしていない。この物件に越してきてもう6年が経とうとしているが、一度も幽霊を見たことはないし、金縛りとやらも経験したことはない。今こうして壁紙が苦悶の表情を浮かべる男に見えるのも、ただのシミュラクラ現象であろう。別に顔があったところで何かをしてくるわけでもない。ただそこに顔がある、その客観的な事実が残るのみである。
かといって、壁に苦悶の表情を浮かべている顔が浮かんでいるというのはとてもではないが気持ちの良いものではない。どうせそこにいるのならば、せめて笑顔ないしは無表情くらいにしてほしいものだ。ならば、と思い、とりあえず先日墓参りの際に余った線香を、適当な小皿の上で燃やし、軽く手を合わせてみた。別に、怪奇現象を信じているからではない。ただなんとなく、そうすれば少しはましになるかな、と思ったのである。
そうすると、意外なことに顔は変化した。ただ、それは私の予想とは少し違っていた。顔は苦悶の表情から、何やら悲しそうな、まるで私を憐れんでいるかのような表情に変化した。
「不満か」
私がそう問いかけると、壁の顔は僅かに首を横に振ったように見えた。
「すまないな、私にはこのくらいしかできん。明日の飯さえも買えないほどなのだ。笑えるだろう、笑っていいぞ」
顔はますます悲しそうな顔になった。所詮、私などこのような怪奇現象にさえも憐みの目を向けられる存在なのだ。それもそうだろう。いい大人が、こんなボロボロの家で、たった一人で貧乏暮らししているのだ。
「私を哀れだと思うのなら、この生活から救ってくれ。それじゃあ、おやすみ」
なんだか愛着が湧いてしまって、つい就寝の挨拶までしてしまった。私もいよいよ、焼きが回ってきたのだろうか。
そうして翌朝起きると、昨日あった顔はなくなっていた。というより、その場所の壁紙が完全に剥がれ落ち、下地が剥き出しになっていたのだ。否、剥き出しどころではない、内側の土だかモルタルだかまでが崩れ、骨組みが見えていたのだ。
ふと見ると、その崩れかかった壁の中に、何かがあるのを見つけた。そうして私は気づいたのだ。壁紙が剥がれたのは、昨日のあの顔が、私の願望通りに望みを叶えてくれたのだと。
「なるほど、怪奇現象ってのも、悪いものじゃないな。私の望み通り、この生活から救ってくれるなんて」
私は壁の中にあった拳銃を手に取り、迷うことなく自らのこめかみを撃ち抜いた。
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