美食家

 美食というものに正解など無いというと、ある意味でそれは私の生業の全否定になる。しかし私は、良いも悪いもそれは普く客観的な価値観によってのみ結論付けられるものであり、それは料理の味や見た目、美食というものに関わるあらゆる判定基準とて例外ではないと思う。

 では美食家と呼ばれる所以は何か、それは多数決に他ならず、数多の人間が好み、数多の人間にとって通常よりも「彼らにとって都合の良い方向に」凝った価値観を並べ立て、それが支持されているからだと私は考えている。味覚が単一ならば、美食などという概念は存在しない。私が食に関する評価を私自身の主観的価値観によって並べ立て、それが偶然にも多数の人間から極端に支持されているが故に、グルメブロガーというものを生業とすることが出来ているのもまた、数多の価値観、数多の味覚があって、かつそれがそれぞれに違っているからこそなのであろう。

 しかし私にとって美食とは、究極の悪食であり、他の理解を得ることなど到底できぬものであろう。それを隠して、私にとっては至高ではないものを、あらゆる語彙を駆使して祀り上げ、カミサマの様な何かまで昇華させた何かを公開することにより、私は私にとって美食とは思えぬものを支持する者達から崇拝されるほどの存在と成り果てたのである。


 そもそもそのような裏がありながら、なぜそれを生業としているかといえば、それこそが私にとって美食といえる物に巡り会う近道であり、最も効率的と言える手段になるのである。

 私にとっての美食にありつく為には、ブログでごく僅かな時間、ほとんど目立たぬようにひとつの記事を掲載するところから始まる。「体験者募集」という記事タイトルで、記事には「本当の美食を教えます」とだけ書いて、メールアドレスを書き込むだけ。そうして数分程度記事を表示したら、速やかに私にとっての美食にありつく為には、ブログでごく僅かな時間、ほとんど目立たぬようにひとつの記事を掲載するところから始まる。

「体験者募集」という記事タイトルで、記事には「本当の美食を教えます」とだけ書いて、メールアドレスを書き込むだけ。そうして数分程度記事を表示したら、速やかに削除する。

 その僅かな間に、数人の私の狂信者が、目敏くそれを見つけてメールを送ってきたらしめたもの。軽くメールを交わして都合のあった人間がいれば、待ち合わせの約束をする。


 数日後、私はその場所に向かい、相手と会う。そうして、その呼び出したその相手と共に、私が本当に愛してやまない一軒の店に向かうのである。

 そこは地図にもない、ただの一軒家にしか見えぬ、御世辞にも洒落ているとは言いがたい店だ。否、厳密には店とも言えない。登記もされていなければ、営業の許可が降りている訳でもない。ただ、素人が料理を振る舞っているだけの、ただの民家と言えるだろう。

 そこに連れていき、最早顔馴染みとなった店員に一声「至高の逸品を」と声をかける。それからは言葉は要らない。ただひたすらに、共された料理に舌鼓を打つだけだ。私の狂信者ならば、この店の料理に何一つ不満は覚えぬだろう。私にとっての至高は、彼らにとってはおよそ想像すらつかない世界と言えるだろう。

 私が招いた人間は皆一様に、食べたことがない、二度と忘れられない、そう賛辞を述べる。そうして自然と、何よりも素晴らしい笑顔になる。それは即ち、私の本来求める美食の世界なのだ。これが何か、どのような料理か、どう手間をかけたのか、それは最早、世間にとっては美食の基準であろうとも、私にとっては些末な問題に過ぎない。ただこの料理が何よりも私の、そしてここに訪れる者達の舌に合い、そしてそれに対する反応が至高のスパイスとなり、そうしてようやく、至高の逸品が完成するのである。

 しかし、ここまではまだ、私にとっては前菜である。店の主人がこの場に出したどの料理も、それは最高のメインに導くためのステップに過ぎない。そのメインは、共された全ての料理を腹内に収め、御馳走様、を発した後にやってくる。

 これだけ美味な料理を口にして、私を慕って連れてこられた美食家たちは皆、再びこの料理を食すことを望む。否、もはやこれを忘れることができないのである。

 しかし、この店はそう簡単に門扉を開くことはないということを、予め説明してある。ならばと考えるのは、より手軽にまたこの味を、ないしはこれに近い味を体験するためにはどうするかと考えるものだ。そうして、私に連れてこられた人間は皆、「せめて素材だけでも教えていただけませんか」と懇願するのである。そうしてくれることで、私は私にとっての至高の逸品に出会うことができるのである。

 私への問いかけを合図に、無口であった店の主人が奥へと引っ込み、この日食した全ての料理の素材、その塊を机に乗せるのである。すると、彼らは皆一様に、恐怖と、嫌悪と、そしてその裏側に渦巻く複雑な感情を混ぜ合わせた、形容しがたい顔を見せるのである。

 究極の美食とは、食べもの自体だけではなく、それを彩る盛り付けや食器、カトラリー、店の雰囲気、音、そのような間接的なものが全て組み合わさって、ようやく完成する至高の贅沢だ。

 彼らは皆、「それ」が何かを良く知っている。それであるがゆえに、彼らは皆それを食すことを拒否したがる。しかし、彼らは皆、一度経験してしまった最高の味を本能的に求め、それを見るだけで唾液が止まらなくなるほどになる。そんな感情が一気に押し寄せ、形容しがたい表情になる、その瞬間が私の美食のフィナーレなのだ。その困惑と期待と、あらゆる感情を食欲が上回るその瞬間を見ることこそが、私にとっての本当の「美食」の要素となるのだ。


 彼らは皆、もう逃げられない。

 彼らは皆、またこの味を求める。

 彼らは皆、街中で涎を垂らすことを我慢できなくなるであろう。


 何故なら彼らは皆、ヒトの味を覚えてしまったのだから。

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