墓場まで

「……あー」

 タクシーを走らせながら、俺は深いため息を吐く。

 時刻は深夜の1時56分。数十メートル向こうには、俺が運転するタクシーを止めようとする一人の女の姿。それ自体は別に不思議なことでもなんでもない。しかし、その女がいる場所は、斎場の目の前。この時間帯、しかも雨の夜に、斎場の前で女を乗せる。なんともできすぎた話だ。

 何十年もこの仕事をしているから、そういった客を何度か乗せたことはある。しかしそいつらの行先は大体墓場。そして目的地である墓場までたどり着くといつの間にかいなくなってしまう。ガソリン代だけが無駄にかかり、俺には一円の利益もない。

 かといって、無視して走り去ってまかり間違って人間だったら会社の評判にも関わる。どうにもこうにも厄介な客なのである。

「すみません」

 背筋の凍るような冷たい声でそう呟きながら、女は車に乗ってきた。傘もささずずぶ濡れで、せっかく掃除したばかりのシートを容赦なく濡らす。

「……どちらまで?」

 ぶっきらぼうに俺がそう問いかけると、女は静かな声で、

「この先の霊園まで」

と続けた。ほれみたことか、また損するタイプの客である。

 バックミラー越しに女をちらりと見る。長い黒髪が雨に濡れて顔や体に張り付き、その表情を伺うことはできない。年のころは10代後半か20代前半といったところか。服もずぶ濡れで、白いシャツが肌にぴったりと張り付き、くっきりと下着が透けているのが暗い中でも判ったが、なんせ相手はおそらく幽霊だ。連戦連勝の俺の自慢の息子も、さすがに反応することはない。

 道中、女は全くの無口だった。斎場から墓場までの距離はおおよそ5キロ。その区間、女は全く身体を動かすことなく、張り付いた髪をそのままにして、じっと、不気味に座り続けていた。


「……着きましたよ」

 目的地に到着し、後ろを振り向く。大抵の場合、この時点で女は既におらず、じっとりと濡れたシートだけがそこに残されているものだ。

 しかし、今回はそうではない。女は先ほどまでと同じようにそこにいて、何やらポケットから財布を取り出している。

「おつりはいりませんので」

 女は相変わらずの静かな声でそう紙幣を差し出してくる。たった5キロなのでメーターの示す料金も割り増し含めて千円台だが、女が差し出してきたのは万札。間違っちゃいませんか、と問いかけようとしたときには、女の姿はもうなかった。

「……」

 俺は心霊話とはまた別に、嫌な予感がした。

 明らかに料金よりも多い金額を、釣りはいらないと置いていく謎の行動。そしてこの時間帯、たった一人で大した荷物も持たずに、こんなところまでやってくるのは、彼女が自殺しようとしているのではないかと疑るに十分なものだった。

 俺は助手席の下に置いてある懐中電灯を取り出し、ゆっくりと雨の墓地を進む。おそらく、あそこで降りたなら女はこちらに来ただろう、そんな根拠のない第六感だけを信じて、俺は夜の不気味なことこの上ない墓場を、ゆっくりと歩く。

 ほどなくして、女は見つかった。できたばかりの新しい墓石の前に跪き、なにやらぶつぶつと声を出している。

 これは、勘繰り過ぎたか、と俺は反省する。この墓石の感じからして、おそらく子供を失ったばかりなのだろう。その愛情があふれだして、こんな時間に、こんな奇行をしているのだ。

 踵を返して戻って、彼女の帰りでも待ってやろうかと思ったその時、彼女の声がふと聞こえてくる。


「――よしよし、いい子だね」


 背筋が急に冷たくなった。その口ぶりは、墓に眠るわが子へ向けられたものではない。どう考えても、その腕の中にいる生きた我が子へ向けての言葉だ。

 俺は目を凝らし、女の手元を見る。女の腕には、何か中身の詰まった産着が抱かれている。そんなはずはない。彼女は手ぶらだったし、ポケットに入る大きさのものでもない。まして同行者が居たわけでもなければ、こういった墓場にそれを置いておくだけの場所もないだろう。

 さっさと帰ればよかったものを、俺はもう少しだけ接近してみた。よく見ると、女は胸元を露出し、抱かれている何かに授乳しているように見えた。

 その時、雷が鳴り、稲妻によって辺りが明るく照らし出された。その瞬間、俺はその女の腕に抱かれているその中身を、しっかりと見てしまったのだ。それは、どう考えてもおかしなものだった。このご時世、火葬によって供養されている状態では、絶対にありえないものが、産着の中に見えたのだ。


 産着の中には、半分ほど肉がついた小さな骸が見えた。そしてその骸は、母乳を求めて、懸命に口元を動かしていたのだ。

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