非常階段

 帰り道の途中にある、廃墟の非常階段。ここは、自殺の名所として知られている。

 少なくとも月に1度、多いときは週に2度ほど、この階段から飛び降り自殺が起きる。5階建ての鉄筋コンクリートの建物の外に張り出した、あちこち錆びて今にも崩落しそうな非常階段から飛び降りると、下は固いアスファルトだ。あちこち草だらけになっている敷地の中において、この非常階段の真下だけは、わずかな雑草すらも生えない状態で、妙な言い方だが、死にやすい場所なのだ。

 行政もそれを放置しているわけではないのだが、廃墟とはいえ私有地であり、勝手に取り壊すわけにもいかない。ましてこの土地の地主は病気で臥せっており、解体の許可を得ることもできない。強制的に解体させるための手続きも存在はしているようだが、実際建物自体の存在によって何らかの不都合が起きているわけではないし、せいぜい立ち入り禁止の札を立てるくらいしかできていない。それゆえに、この建物はとにかく自殺者が山のように出る魔界と化していた。

 建物に入ること自体は容易だ。表通りはそれなりに人通りもあるが、工場の裏手にある道はほぼ人通りもなく、見通しも悪い。そのうえ、裏側のフェンスはすでに崩壊していて、誰にも見つからずに入ることができる。玄関の扉は施錠こそされているがガラスはすっかり抜け落ちており、ドアを開けずとも中に入ることができ、建物自体は廃墟となったあとも十分な強度があるようで、中に入っても天井やら床やらが抜け落ちているわけでもなく、それなりに安全に中を動き回ることができる。

 なぜそんなことについて私が詳しく知っているのかというと、つい先日、悪友とこの建物を肝試しの名目で探検したからである。この廃墟はもともと病院だったようで、あちこちに当時の面影を残すベッドや薬品棚、手術に使う照明など、お誂え向きのホラー要素が残っている。それに加えて頻発する自殺。そういうこともあって、この建物は廃墟でありながら人の出入りが多いのだ。


 しかし、私はある日、自殺者が多い理由を知ることとなる。

 その日は極端な残業となってしまい、会社を出たころにはもう既に日付が変わっていた。幸いにして私の家は会社から徒歩で20分程度のところにあり、帰宅自体に困ることはない。ただ、それでも深夜までの仕事から帰宅するのに、20分という道のりは決して楽なものではない。だから私は、普段通るあの廃墟の前の道ではなく、その裏側、人通りの少ない裏道を帰ることにした。街灯もほとんどなく暗いのだが、この道を通ると、途中から曲がってショートカットすることができ、わずか10分で家に帰ることができるのである。

 普段この道を通らない理由は、ただただ暗く、狭く、危険だからである。人通りが少ないのをいいことに変質者やひったくりが多く出るようだし、夜になれば足元さえ見えない暗闇になる。道幅は軽自動車はまず通れない程度の細道で、バイクや自転車ならなんとかすれ違える程度の幅しかない。途中にはちょっとしたトンネルがあり、そこはまさに心霊スポットさながらの不気味さだ。そんなところを、少し急ぎたいから、という理由で通る人間はそうそういなかった。ただ私は、それほどまでに嫌な道を通ってでも、早く帰りたかったのである。

 トンネルは幹線道路との立体交差で、表通りは綺麗に手入れされて十分な明るさもあるものだが、この道にあるトンネルはそれこそ岩を掘っただけなのではないかと言いたくなるような荒れ具合で、内側の明かりはとっくに切れてしまっている。夜中にこの道を通ると、入り口側も出口側もほとんど明かりがみえず、本当に漆黒の闇になるのである。自転車やバイクに乗ったまま通り抜けるのは自殺行為といっても過言ではないだろう。


 私はスマートフォンのライトで足元を照らしながら、ゆっくりと暗闇のトンネルを歩く。トンネル自体はそれほど長いものではない。昼間であれば反対側が容易に見通せる短さで、上を通る道路の片側三車線の道幅に少し足したくらいだ。しかしここの空気はやたらと重苦しく、とにかく急いで出たい、その一心でしかない。一歩、一歩、私は慎重に歩を進めていく。

 そうして歩いていた時、トンネルの出口に差し掛かったことが、僅かな明かりで分かった。表通りから50メートルほどしか離れていないというのに、まったくそちらの明かりは伝わってこない。ただ大きく欠けた月のわずかな明かりが、空から道を照らしている程度である。

 一歩踏み出そうとしたとき、私はそのまま立ち止まった。先ほどまで歩いていたのはアスファルトの地面だが、トンネルを出た瞬間、コン、と靴音が響いた。それは、アスファルトの地面の音などではなく、明らかに金属音、そう、たとえば非常階段の踊り場のような場所で響く音であった。

 私はあわてて正面を、そして左右を見た。そして私は先ほどまでいた場所ではなく、例の廃墟の、非常階段の上にいるということを認識した。見ると、あと3歩進んだところでは、非常階段のフェンスが崩れていて、そのまま歩けば、フェンスに当たることもなく真っ逆さまに落ちてしまうところであった。

 後ろを振り返ると、先ほどまでの暗闇のトンネルではなく、廃墟の廊下がそこにあった。開け放たれた扉が、風によってキィキィと不気味な音を立てている。あまりに恐怖に私は茫然と立ち尽くしていたが、やがてハッと我に返り、スマートフォンの明かりを頼りに、廃墟の中を進んで、下へと向かう階段を下りた。

 おそらくあのトンネルが、ここの自殺者が多い理由なのだ。あのトンネルからは、何らかの条件下でこの階段のところにつながってしまい、暗闇の中で前をろくに見ないで歩いている人間、たとえば歩きながらスマートフォンをいじっていたり、あたりに注意を配らずにぼーっと歩いていたりするような人間は、そのまま気付かずに落ちてしまうのだ。あれは自殺などではない、この奇怪な時空の歪みが引き起こした事故、ないしは、その歪みを引き起こした何かによる殺人なのだ。

 私はとにかくこの場所から逃げたかった。この奇怪な時空の歪みから抜け出したかった。その一心で、私は暗闇の中で階段を駆け下り、一階の玄関へと向かった。破られたガラス戸から外に出て、表通りが見えた時、私は心底ほっとした。この場所から出るには裏道を行くほうが良いのだが、今はあちら側には戻りたくない。誰かにバレて大目玉を食らってもいいから、とにかく明るい道へと逃げ出したかった。

 私は走って病院の正面入り口へと向かい、正門の横にある小さな出入り口に辿り着いた。何か後ろから着いてきていやしないか、それが少しばかり気がかりになり、私はふと後ろを振り返った。


 後ろには何もいなかった。

 ただ、廃墟の廊下がずっと奥へ伸びているだけだった。

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