靴箆

 アンティークの店で靴箆を買った。それほど高くはなかったのだが、鼈甲で作られた上質なものだ。鼈甲細工としてはそれほど大きなものでもないし、かつただの置き物やアクセサリーではない実用品という点が気に入ったのだ。持ち手があるものではないので常日頃から持ち歩けるし、実際使った時の滑らかさも気に入って、私は毎日鞄に入れて持ち歩いていた。

 汗や水に弱いというので、毎日帰宅してからしっかりと柔らかい布で拭き上げ、暇な時間にはその鼈甲特有の美しい模様を眺め、とにかく大切にしてきた。高いか安いかではなく、それがとても気に入ったので、とにかく何よりも大事に扱ってきていた。

 そんなある日、背中がじわじわと痛み始めた。何か、皮膚を剥がされるようなそんな痛みだ。とはいえ基本的に力仕事はしていないし、しかし運動不足でもない。不摂生はしていないと神に誓っても言えるほどに生活には気を付けている。そういった状態に陥る理由がまったく思いつかなかった。


 その要因を知ったのは、それから数日が経った夜のことであった。背中の痛みは日に日に増してきて、いよいよ日常生活にも支障を来し始めそうなほどであったが、私は根っからの病院嫌いという健康第一思考には似つかわしくない性格なので、とにかく無理をしないように耐え続けていた。

 布団に入っていつもの通り眠りに落ち、時刻が深夜の二時を回ったころ、私は腹部の圧迫感で目を覚ました。ゆっくりと目を開けてみると、そこには大きな亀が乗っていた。

 亀はその無機質な瞳でじっと私を見据え、何かを言いたげにしている。当然、亀が何かを喋ることはないが、しかし、私は直感的にその亀がどういう存在で、私に何を言いたいのかを察することが出来た。

「お前が持ち主だったのか」

 私は亀の甲羅にそっと手を置く。亀は少し戸惑ったように首を動かしたが、またじっと私を見据える。

「お前に甲羅を返してやることも、お前の命を取り戻してやることも出来ないが、そのかわり、お前の一部は私が命尽きるまで、ずっと丁寧に使い続けてやる。それが唯一私がお前に出来る償いで、弔いだ。……それでいいか?」

 私がそう問いかけると、亀は僅かに首を縦に動かし、そして、煙のように姿を消した。


 それから何年も、鼈甲の靴箆は持ち続けている。毎日丁寧に拭き上げ、それまで以上に丁寧に、そして大切に使っている。あの日以降背中の痛みはまったくなくなり、亀が現れることもなかった。

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