達磨

 東京の大学に通うため一人暮らしを始めることになって、その時に親戚の一人から達磨を貰った。両目には黒目が入っておらず、独り暮らしをするにあたり、自分が何かを成し遂げたときに二つの目を書き入れなさい、と言われたので、特に目標というものが思いつかなかった私は、とりあえず新居に到着して、ひとまず健康の祈願という意味も込めて、左目に黒目を書き入れた。それほど大きくない達磨なので、棚の上に置いておいて、いつか自分が何か大きなことを成し遂げたならば右目を書き入れようと決めた。

 しかしそのような決意というものは三日もあれば忘れてしまうもので、達磨はいつしかただの置き物、否、ただの荷物と化し、一か月、半年、一年、二年、その存在すら忘れ去られたままに棚の上でどんどん埃をかぶっていた。その間に私は色々な事を成し遂げたが、片目だけの達磨のことは脳内の片隅にもなく、一つ、また一つと自分の目標を達成していっても、貰った達磨のことを思い出すことはなかった。


 そしてそのうちに三年間があっという間に過ぎ、私の大学生活も残り一年となった。しかしこの三年間勉強ばかりで部屋の掃除なども適当にしかしていなかったので、机や床などは綺麗だったのだが、棚の上やシーリングライトの蓋の裏側、あちこちに溜まったゴミを目にして、これを機に大掃除をすることにした。

 埃というのはいったいどこから湧いて来るのか、布団でも作れるのではないかというような量の埃があちこちに溜まっていた。大まかに埃をかき集めて袋に入れ、掃除機で残った埃を吸い取り、仕上げに水拭き。少しずつ三年分の埃が落とされていくことに快感を覚えながら掃除を進めていくうち、例の忘れていた達磨を目の当たりにした。

 当然と言えば当然だが、達磨は顔も身体も――もっともどこを体と呼称するのかは不明確なのだが――埃だらけになっていて、もはや表情は読み取れず、書き込んだ左目もやや色あせていた。私は今までのことを思い返し、この三年間でいろいろなことを達成してきたし、きっともう目を入れても良い頃合いだろうと考えて筆ペンを手に取る。

 ゆっくりと右目に黒目を書き入れる。できるだけ左目の、三年前に書き入れた黒目と同じような大きさや形になるように気を遣いながら、ゆっくりと目を書き入れる。すっかり色あせてしまった左目と書き入れたばかりの右目では色の濃さが倍も違うが、それもこの三年間の集大成という事だろうと思い、そのまま今度はもっと見やすく、決して忘れることがなさそうな場所に置いた。


 しかし翌日、私が目を覚ますと、書き入れたはずの右目がすっかり消えていた。

 私は間違いなく筆ペンで書き入れたはずだし、埃も一切被っていないのだから昨日の出来事が夢だということはありえない。しかし、間違いなくそこには、埃の山から救い出したばかりと同じ、何も書き入れていない状態の達磨がいたのだ。

 不思議に思いつつも改めて筆ペンを持ち、達磨の右目に改めて黒目を書き入れようとする。しかし、どれだけ筆ペンを押し付けても、まったく色はつかない。インク切れかと思って近くの紙切れに適当な文字を書いてみるが、しっかりと書ける。しかし、なぜか達磨に黒目を書き入れようとすると、まったく色がつかないのである。ならばと思って油性マジックを取り出してみても同じことだった。

 その時、携帯の着信音が鳴り響いた。見て見ると、この達磨をくれた親戚からであった。

 電話の内容は、とても簡単なことであった。元気にしているか、ここまでの大学生活はどうだったのか、たまには両親に顔を見せに帰ってこい、そんな田舎の親戚が言いがちな言葉をいくつか並べた後で、親戚は最後にこう付け加えた。


 ――ちゃんと大学をしっかり出て、本当に立派になって帰って来い。


 私はその言葉を聞いて、全てを理解した。要するに私はまだ、この達磨に目を書き入れる資格がないのだ。私が本当に成し遂げなくてはならないことは、大学四年間をしっかりと健康に過ごし、立派になって故郷に帰るところまでなのだ。

 私はペンの蓋をきつく閉め、達磨をもとの場所に戻した。あと一年、しっかりと勉強して、この東京での生活を終えるその時に残った右目を書き入れようと、そう心に決めたのである。

 それから一年、私は無事に大学を上位の成績で卒業し、東京の一流企業への就職も決まった。もうさすがに達磨も認めてくれるだろうと思い、筆ペンを取り出して右目を書き入れようとする。しかし、達磨はそれを許してはくれず、インクの微かな染みさえも残すことは出来なかった。

 どうやらこの達磨は、まだずっと、私を見守ってくれようとしているようだ。

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