箸なんてものは所詮、食べ物をつまみ上げて食事をするための道具であって、割り箸を使う人ももちろん多いし、塗り箸にしてもそれっぽいもの程度なら百円均一の店で手に入るものだ。しかし私は、基本的に食事をするときに割り箸や安い箸は使わない。もちろん、外での食事ではある程度致し方ない面はあるのだが、家で何かを食べるときは、必ず職人が作り上げた本格的な塗り箸を使うようにしている。

 もちろん、良い塗り箸であってもそれなりに寿命はある。塗りが剥げてしまえば衛生的に良くないし、そのまま使い続けていればやがては折れてしまうこともあるだろう。そこで私は、毎年同じ日に隣町にある職人の店に行って、私好みに誂えてもらった特注の端を買っている。もうかれこれ二十年は付き合いがあるので、向こうも私のことはしっかり覚えてくれているし、年賀状も毎年やりとりする仲である。

 職人さんのほうももうかなり高齢で、毎年お店に行くたびに今年が最後になるかもなぁ、などという事を言い続けているが、二十年経った今でも毎年同じ言葉を聞く。相変わらず仕事を止めるつもりはないようだが、やはり実入りは年々減っているらしい。それというのも、現代は先述した百円ショップで安くものが手に入るし、食器や道具にこだわる人間もかなり減ってしまっているので、常連は本当に私とあと一握りの数名だけで、あとはたまたま近くに旅行に来た客が、お土産として買っていく程度なのだそうだ。その中でも塗り箸は比較的安価なので、お土産に買っていく人は多いらしい。はたしてこいつの価値を判ってくれるのかねぇ、と、その職人さんが寂しそうにつぶやくのが、毎年印象的だった。

 私がそれほどまでに箸にこだわるのには理由がある。

 別に、食事をするだけならばどんなものを使っても構わない筈だし、割り箸が環境によくないだとか、衛生的によくないとかならば、数百円でしっかりとした作りの箸はそこらじゅうに売っている世の中だ。しかしその職人さんの塗り箸を、それも私の好みに合わせて特注で作ってもらうには、亡くなった親父がそうだったからなのだ。

 親父もまた、私がお世話になっている職人さんと同じく、塗り物の職人をしていた。そもそもこの周辺の地域は塗り物が有名で、伝統工芸品に指定されているくらいなので、そういう仕事をしている人は私の知り合いだけでも数名思い浮かぶ。そんな親父がずっと言っていたのは、箸だけでもいいから本当に自分に合うものを使え、と言っていたからだ。親父が存命だったころは、私の箸もずっと親父に作ってもらっていたのだが、親父が早くに亡くなった後は、その職人さんにその箸を持っていって、これに近い重さ、バランスで作ってほしいと頼んだのだ。職人さんは私の思い出話などもちゃんと聞いて、快くそれを引き受けてくれたのである。


 そんなある日、職人さんから正月でもないのに一通の手紙が届いた。開いてみると、どうしても渡したいものがあるからできるだけ早く来てほしい、という事だった。その職人さんは電話が嫌いで、携帯などという近代の道具も持ち合わせてはいない為、手紙がとどくまでの時間を考えるとそれなりに急いだほうがいいのだろうな、と思ったので、私はその手紙を受け取ってから、その後すぐにお店に向かった。

 お店に行ってみると、いつもの職人さんが、いつも通りの鹿爪らしい顔をしながら仕事をしているところだった。私が声をかけると、職人さんは少しだけ微笑んで、おう来たか、とだけ言って棚から何か箱を取り出し、私に手渡してきた。開けて見ろ、というので開けてみると、それは、私が普段頼んでいる箸だった。それも一膳ではなく、五膳も入っていた。

 どういうことかと問いかけると、お前が毎年来てくれるのも嬉しいんだが、どうしてもすぐに作って渡しておかなきゃいけないな、と思ったのだという。もしかしたらお迎えが近いのかもしれないな、という職人さんに、そんな縁起でもない、と私は笑って見せた。代金はいらないと言っていたのだが、そういうわけにもいかないと私は半ば押し付けるように五膳分の代金を支払い、それでも必ず来年も来る、と言ってお店を出た。

 職人さんの奥さんから連絡が来たのは、その日のうちだった。あのあとすぐに職人さんは倒れ、そのまま息を引き取ったのだという。最後の仕事として、通い詰めていた私に最後の贈り物をくれたのだろうと、私は今まで通り一年に一膳ずつ、毎年その箱の中から取り出して使うことにした。


 それから五年が経ち、箸も最後の一膳となった。それにしたって不思議なのは、あの職人さんが予知していたのは自分の死ばかりではなかったという事だ。私が貰った箸は五膳。それはこれからずっと使っていくにはあまりにも少なかったはずなのだ。しかしあの職人さんは、きっちり五膳揃えていたのだ。それはきっと私があと必要な本数を直感的に察知して、その本数分だけ用意してくれていたのだろう。

 最早食事を摂ることもできなくなった私は、もう三週間ほどあの箸に触れてはいない。そして医者から宣告されている私の余命は、もってあと十日らしいのだ。

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