剃刀

 髭を剃る時の道具といえば、昨今では電気シェーバーやT字型の安全剃刀が大半だろう。

 シェーバーもその手の安全剃刀も、刃はそれらの周りにある部品ごと交換するものであるが、私は昔から、交換式ではない西洋剃刀を使っている。現代でそれを使っている人間など殆どいないだろうが、その肌への当たった感覚や、髭を剃るまでの準備の時間も含めて、それを趣味として愛用しているのである。今現在、平成の世でそのような剃刀を使っているのは、せいぜい理髪店などのプロフェッショナルな店だけではないだろうか。

 そんな私であるが、さすがにその剃刀を使うのは家にいるときだけで、旅行や出張の時はまた別の剃刀を使っている。とはいっても使い捨てのT字型の剃刀などではなく、替え刃式の化粧用剃刀だ。そちらに関しては肌への負担やら使いやすさやらではなく、ただ何となく、昔から使っているから、以上の理由はない。

 これから2週間ほど出張でホテル暮らしになるので、私は何かあっても良いように替え刃を一箱用意し、ホテルに着くなりそのあたりの準備を始めた。別にアメニティでT字型カミソリは置かれているのだからそれを使えばよい話なのだが、髭剃りをある種の趣味としている以上、この時間だけは出先でもゆっくりと楽しみたいというのが、私の拘りだ。


 しかし翌朝目を覚ましてみると、剃刀に付いていた替え刃がすっかり錆びてしまっていて、とても髭が剃れる状態ではなかった。

 出かける前に一応確認したはずなのだが、その刃はそれこそ塩水の中にずっと浸かっていたかのような傷み方だった。どう考えてもおかしいな、と思いながらも仕方なく替え刃を取り出し包み紙を剥がしてみると、それもすっかり錆びていた。まさか、と思ってほかのものをすべて剥がしてみると、それらすべてが、それこそ簡単に崩れ落ちそうな程に錆びてしまっていたのである。

 仕方なくその日は我慢してアメニティのT字剃刀を使って髭を剃ったが、やはりなんとなく落ち着かない。私にとって髭剃りとは、朝のコーヒーと同じように、その日のスタートを切る重要な儀式であるから、それがこれほど平凡なものになってしまうと、なんだか調子が出ない。

 その日の仕事帰りに近くにあった薬局で改めて替え刃を買い、ホテルの部屋に戻る。これで明日はまた気持ちよく仕事に行ける、そう確信していた。

 しかし翌朝も同じことが起こった。昨日買ったばかりの刃が、すべてボロボロになるまで錆びてしまっている。昨日の薬局に文句を言おうかとも考えたが、管理が悪いくらいでそうはならないだろう。仕方なくその日もまたT字剃刀を使い、また帰りに替え刃を、今度は二箱買って部屋に戻った。また錆びていてはたまったものではないので、その日のうちに刃を確認し、まったく問題がない事を確認した。その上で本体に刃を付けておき、私は眠りについた。

 ある程度は予想していたことだが、翌朝目を覚ますと、昨日付けたばかりの替え刃が錆びだらけになっていた。他の替え刃も全て、崩れるほどに錆びていた。

 さすがに私は頭にきた。誰かの悪戯かとも思ったが、比較的最近建ったホテルの一室に、勝手に入ってこられるような人間もそうはいないだろう。それにしても、替え刃1箱五百円としても、これだけで千五百円の損失だ。そのうえ、唯一の楽しみを奪われているストレスも相俟って、私はもう今すぐに帰りたくなっていた。

 その日の夜は替え刃をもう一度買って、今度はスマートフォンのカメラを起動し、タイムラプスモードで刃を置いた机の方に向けて眠ることにした。眠っている間に何かが起きたのであれば、そこに記録されているだろうと信じて。


 翌朝、案の定刃は錆びていた。私はかなり熱くなったスマートフォンを手に取り、動画を確認する。

 すると、しばらくの間は何も起きていなかったのだが、私が眠りに落ちてからしばらくした後で、一人の女が現れた。髪も服もびしょ濡れで、左腕は真っ赤に染まっている。それが生きている人間でないことは、その雰囲気からして明らかだった。

 女は剃刀の刃をじっと見つめる。悲しそうな、恨めしそうな、そんな視線を、机に置かれた刃に向けている。するとどういうわけか、刃はみるみるうちに茶色く変わっていく。女はそれを見届けた後、カメラの方をちらりと見て、そして、そのまま煙のように姿を消した。

 私は慌ててホテルのフロントに走り、先ほどの動画を見せた。すると受付の人間は顔面蒼白になり、支配人を呼びに行った。支配人は動画を見るなり私に謝罪し、あの部屋を使用禁止にするようにほかの従業員に命令していた。宿泊費を返した上でさらに上等な部屋に案内すると言っていたが、私はそれ以上にその女の正体が気になってしまい、しつこく支配人を問い詰めると、支配人は観念したように白状した。

 あの部屋では以前、自殺者が出たのだという。そしてそれは間違いなくあの動画に映っていた女であり、そして自殺に使ったのが、あの剃刀なのだという。おそらくは、自分の死を想起させる物を持ち込んだことが気にくわなかったのだろうか。だから、何度刃を買っても、それを錆びさせてしまっていたのだろう。

 部屋を移動して以降は、刃が錆びることはなくなった。私は今日もまた髭剃りのひとときを楽しみ、そしてさっぱりとした気分で職場へと向かう。外に出て不意にホテルを見上げると、移動させられる前の部屋が目に入った。四階の角部屋で、外から見てもとてもわかりやすい部屋だ。


 あの女が、窓の外の私をじっと見ていた。

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