大笑い

 隣人トラブルというものは、集合住宅がある限りいつまでもなくならないものなのだろう。

 私は数か月前このアパートに越してきたのだが、その隣人トラブルというものに悩まされている。とはいっても、別にゴミ捨てだとか、日常生活だとか、ケンカだとか、そういうタイプのものではない。純粋に、騒音である。ゲームの音とか、テレビの音じゃない。隣人の声、それも、笑い声だけが大きいのだ。

 隣人は、独り暮らしの私と同世代の女性。とても良い人で、よく作りすぎた夕食を持ってきてくれるし、こちらからも持っていくことが多い。休みの日には一緒に出掛けることもあるし、玄関前でその日あった出来事を報告しあうこともある。とにかく、私と隣人の女性は、周りの人から姉妹じゃないかと言われるほどに、とても仲が良いのである。

 それであるがゆえに、笑い声のことを指摘するのも憚られたし、逆に言えば、それ以外はとても良い人なのであるから、関係を悪化させたくない、という感情がとても強かった。しかも、その笑い声は、連続して聞こえてくるわけではないのだ。夜、遅い時間に、唐突に『あはははははははははははッ!』と、若干高笑いにも近い、甲高い笑い声が響くのである。そして、その笑い声は継続せず、一度聞こえたらその先連続して聞こえることはない。一晩のうちに、3回か4回程度、その笑い声が聞こえてくるのだ。

 おそらくは、動画サイトか何かで面白いものを見て、思わず笑ってしまった、というところだろうか。寝ているときでもその声に起こされることもあるので迷惑は迷惑なのだが、しかし、逆に言えばそれだけだったらあまり気にしても、いちいちうるさい人だと思われてしまいそうで怖い。私と彼女が引っ越してきたのは数日違いであるし、そこまで遠慮する意味もないのだが、あまり騒ぎ立てるのも良い結果にはつながらないのは目に見えている。

 ゆえに、私はたとえ寝ているときにその声で起こされようとも、気にしないことにした。もちろん、ストレスが無いわけではない。しかし、それ以上に、彼女との今の友好関係を壊す方が、よほど私にはマイナスであった。


 しかし、その関係を保ち続けようとしていた私にも、さすがに限界が来た。

 その日、私は風邪で三十八度の熱を出して、家で静養していた。頭痛もするし、吐き気もある。そんな状態の中で、隣の部屋からいつもの笑い声。普段であればうるさいなぁ、と思う程度なのだが、今日は流石に訳が違う。甲高い声が頭痛にがんがんと響き、とても寝ていられる状態ではない。しかも今日に限って、笑い声は一度ではなく、数分ごとに、何度も、何度もその声が聞こえてくるのである。

 私はとてもではないが、我慢が出来なくなった。いくら仲が良い相手でも、限度というものがある。普段ならば我慢すればよい状況だが、さすがにこの体調だ。これを我慢するくらいなら、出て行ってしまった方がましだ。

 ふらふらと視界が回る中、私はゆっくりと玄関の扉を開け、隣の部屋のドアの前に立つ。と、その瞬間、隣家の扉が開き、隣人がドアを開けて出てくる。少し苛立ったような様子だったが、隣人は私の姿を見てなにやら硬直する。

「……あの」

 笑い声のことを言おうとして口を開いたが、私はそれ以上言葉をつづけられなかった。それというのも、隣人がみるみる青ざめていったからである。

「……あの、何か?」

「……」

 私の問いかけに、隣人は何かに怯えるかのように、ゆっくりと後ろを振り返る。

『あはははははははは!!』

 私は腰を抜かしそうになった。私から見れば隣人の部屋側、隣人から見れば私の部屋側からになるあたりから、甲高い笑い声が聞こえてきたのだ。それで、すべてを察した。恐らく隣人もこの声を私だと思い、あまりに今日はうるさいので文句を言いに来ようとしたのだろう。しかし、私がそんな笑える状態でないことを、一目で察したからこそ、彼女は凍り付いたのだ。

 私と彼女の部屋の間には、何もない。あるとすれば、壁だけなのである。つまりこの笑い声は、壁の中から聞こえて来たのである。


 私は風邪で辛かったことも忘れ、彼女と一緒に大家の家を訪れた。深夜二時にたたき起こされた大家は当然のことながら不機嫌そうではあったが、事情を説明すると大家は顔色を変え、引っ越し費用を含めて負担するから大家が所有するまったく別のアパートに引っ越してほしい、という事だった。やけに話が早く進んだので事情をさらに問いただすと、原因は隣人の部屋にあったらしい。

 かつてあの部屋で殺人があった。一人の女性を、その恋人の男性が刺し殺したのだ。壁に叩きつけられた女性は石膏ボードの壁をぶち抜き、信頼していた恋人に裏切られたショックで気が狂い、その命が尽きる直前まで大笑いしていたのだという。事件の後、表面上壁はリフォームされたが、私の部屋と彼女の部屋の間には、いまだにその女性の血が大量に染みこんでいるのだという。

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