疲れて帰ってくると、自分の部屋を忘れそうになる。

 とは言っても、別にそれほど記憶が混乱しているというわけではない。私が住むマンションはとにかく奥行きが長く、しかも同じような部屋がずらずらと並んでいる為、部屋番号をよく見ていないと、他人の部屋に行きかねないのである。

 当然の事ながら、他人の部屋に入ってしまうことはない。もちろんそれぞれの部屋はしっかりと施錠されているし、仮に鍵を入れたところで開くわけがない。とは言っても、他人の部屋に鍵を突っ込みガチャガチャと回すなど、仮に私が在宅していてそれをされたら怖い事この上ない。というか、実際にそれをされた事があり、その時は階下のおばちゃんだったから良かったものの、正直、心臓が飛び出しそうになるほど恐怖したものだ。

 だから、私は必ず部屋番号を確認して、それから鍵を差し込む。これも何十年か住んでいれば感覚でここが自分の部屋であると覚えるのだろうが、越してきてまだ一ヶ月、今のところ私にはその感覚とやらはつかめそうもない。


 仕事が最近忙しく、終電ギリギリで帰宅する事が多い。今日もまたその例に漏れず、帰宅した頃には日付が変わろうとしていた。

 私はいつものようにエレベーターに乗り込み、4階のボタンを押す。それにしても、なんだかエレベーターの中が妙に寒い。そろそろ季節も変わる頃で、昼間などは少し汗ばむほどだが、エレベーターは日が当たらないということもあるのか、外よりもずっと寒く感じる。

 そして目的の階にたどり着き、エレベーターはドアを開く。いつものようにだらだらとした足取りで部屋番号を見ながら、自分の部屋を探す。隣の部屋まで部屋番号を数え、さあ次だ、と前を見て、私は猛烈な違和感を感じた。

 普段であれば、そこに私の部屋があるはずだ。しかし、それが無いのである。表札が変わっているとか、部屋番号のプレートがなくなっているとか、そういった話ではない。部屋そのものが、まるっきり存在していないのだ。私の部屋があったはずの場所は、完全に壁になっていた。廊下に繋がる窓も、換気扇の穴も、何もない。本当にただの壁になってしまっているのである。

 異常すぎる事に直面すると、人間と言うのは急に冷静になるものだ。私はぺたぺたと壁を触り、その質感が本物である事を確かめる。そして次の部屋を見て、表札が私の住む部屋番号のもう一つ後であるということも確かめる。それは間違い無かったので、その間にあるこの壁の向こうには、本来、私の部屋があるはずなのだ。

 さすがに何かおかしい、と私は辺りを見回す。開放廊下から見える景色は普段となんら変わらず、そこが間違いなく私の住むマンションである事は明白だった。ならば何故、私の目の前には壁があるのだろうか。

 頭を落ち着かせる為に、私は一度エントランスまで戻る事にする。エレベーターに乗り込み、今度は1階のボタンを押す。ゆっくりと動き出すエレベーターの中は、やはりなにやら不気味なほど寒い。こんなことなら春物のコートを着てくるのだったと後悔しつつ、降りてゆくエレベーターの中で寒さに震える。

 エントランスに下りると、やはり普段通りだった。マンション名のプレートも間違っていないし、集合ポストもちゃんとそこにある。そこにはちゃんと、私の部屋番号のポストもある。ならば、さっきのは一体なんだったのだろうか。

 怪訝に思いつつも、改めてエレベーターのボタンを押そうとしたとき。


 ――ドンッ――。


 すさまじく低く大きな、地響きのような音が響く。そしてその直後、マンション全体に非常ベルの音が鳴り響く。私は慌てて外に出て、マンションの全体を見渡す。

 火事だ。

 私が住む部屋――だと思われるあたり――から、勢いよく炎が吹き出ている。ベルの音で飛び起きた住人達も、寝巻き姿で外に出てくる。外から見ると、先ほどまでの壁ではなく、ちゃんと部屋がそこにある。

 直後、もう一度大きな爆発があった。もしも私がそのまま家に帰っていたらどうなったのか。それを考えると恐ろしすぎて、私はへなへなとその場にへたり込んだ。


 火事があったのは、やはり私が住んでいた部屋だった。

 出火原因は、放火。犯人は私の部屋の隣に住む男に非常に強い恨みを持っていたらしく、鍵を開けて家に進入し、リビングにいたその男を包丁で刺し殺して火をつけようとしたのだという。しかしその時につけたライターの炎が、気化したガソリンに引火して爆発が起きたらしい。。あの時、仮に普通に部屋に戻っていたら、ガソリンを撒いている犯人と鉢合わせした事だろうし、そうでなくても、火事に巻き込まれて極めて危険な状態になっていただろう。壁と化していた私の部屋、異常に寒いエレベーター、それらは人ならざる誰かが私を守ってくれようとしたことによる現象なのだろうか。

 私はもはやその出来事には恐怖を感じなくなって、むしろ感謝の言葉を述べたいほどだった。そして、殺人犯自体もそれほど怖くはない。今はもっと怖いものが一つだけある。今回、犯人は鍵を壊して進入、中にいた男を刺し殺し、その現場に火をつけたのだ。現場から死体も発見されているそうだし、その供述に関して、なんら疑う点はない。だからこそ、私はたまらなく怖いのだ。


 ――何故隣人の男は、施錠されていたはずの私の部屋にいたのだろうか。

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