棚の下
我々の会社では、長期休暇の前には大掃除をすることになっている。普段はそれこそ床のモップ掃除程度しかしないのだが、その時ばかりは棚の中身を出せるだけ出し、棚を移動させてその下の埃まで残さないように掃除をする。丸一日かけて、普段から仕事をしている環境を完璧に綺麗にする。そうして気持ちよく仕事ができる環境を作り出し、休み明けに気持ちよく仕事ができるようにするというのが、わが社の社長のこだわりだった。
社長のこだわりと聞くと、社員は嫌々従っているようにも感じるのだが、そうではない。わが社では社長が率先して棚の移動や拭き掃除などを行うし、そもそも社長の人望がとても厚く、新入社員も含め、その風習に異を唱える者はいない。給料が出ないわけでもないし、嫌々やらされているという意識もない。全員が率先して、大掃除に協力するのが、わが社の自慢であった。
それにしても、棚の下というものは汚いものだ。埃はそれこそ枕の一つでも作れそうなほどに溜まっているし、髪の毛やゴミ、ちょっとした小さなネジや部品、その上小銭まで落ちている。棚と床の隙間はほんの四センチ程度しかない為、日常の掃除ではモップを差し込むことができず、どうしても汚れが溜まりがちだ。
一つ一つ、すべての棚をずらしては埃を除去して戻しを繰り返しているとき、我々はふと掃除の手を止めた。
「この棚の下、異様に綺麗」
他の棚の下は、例外なくすさまじい量の埃が堆積していた。一つ隣の棚までは同じ状態だったのだが、この棚の下だけは何故だか知らないが微塵も埃がない。吹き飛ばしたとか、たまたま積もらなかったとか、そういうレベルの話ではない。まるで雑巾で拭き上げたかのように、チリ一つないのである。
棚の構造自体はほかの棚とまったく変わらないし、特別埃が入りにくい、ないしは汚れが吹き飛ばされやすい条件下にあるわけでもない。この棚の真下の四角い空間だけが、まるでたった今掃除をしたかのように綺麗なのである。
「誰かもう掃除したっけ?」
「そんなことはないと思うけどなぁ」
そんなことを話しつつ、ここは別に拭き上げてもしょうがないし、棚を戻す。そして、その次の棚をどかす。
「……なんでだろう」
その棚の下は、先ほどまでと同じように猛烈な埃だった。ゴミも髪の毛も大量に積もっていて、先ほどの綺麗さとは似ても似つかない有様だった。
不思議だね、とは言いつつも、我々はそのまま掃除を進めて、社内はチリ一つない綺麗な状態になった。満足して長期休暇に突入する頃には、そのことなどもうすっかり忘れてしまっていた。
それからしばらく経った頃。
丁度その棚の前で仕事をしていた時、私はペンを落としてしまった。本体は外側に落ちたままだったのだが、キャップがコロコロと棚の中に入ってしまったので、私は慌てて屈んで、棚の下を覗き込む。
キャップは棚の下にあった。相変わらず、棚の下にはチリ一つ落ちていない。それほど奥には入り込んでいなかったので、とりあえず何か手ごろな棒で引っ張り出すか、と思ったその瞬間。
――パシン――。
何かが、キャップを弾き飛ばしてこちらに返してきた。何か、というより、私はそれをはっきりと視認した。しかし、それがここにあるはずがないのだ。
何かの見間違えかと思い、私はポケットにあった十円玉を、棚の下に転がす。
――パシン――。
やはり十円玉は何かに弾かれて、隣の棚の下へと転がっていった。
何か、というのは、手だった。それも、真っ黒な、人の手だ。私は叫び出しそうなほどの恐怖を感じたが、しかしそれと同時に、恐ろしさを上回る好奇心が頭の中を支配した。私はスマートフォンのカメラを起動してライトを点し、録画状態にした上でカメラを上に向け、長いストラップの端を掴んだまま棚の下に滑り込ませる。
――パシン――。
案の定、スマートフォンは弾かれて、私の方に戻ってきた。私はカメラを拾い上げて停止ボタンを押し、アルバムのアプリを起動して先ほどの動画を確認する。
私の顔が映し出された後、カメラは一気に棚の下に入り込む。ライトで照らされたのは、明らかに棚板ではなかった。棚板は裏表ともにアイボリー色のはずなのに、映し出されたのは真っ黒な世界。暗いからではない。その黒いものはライトの光を反射しつつ、何かの生き物のように脈動を繰り返している。それからすぐに、その黒いものの真ん中に何やら白い二つのものが見える。近すぎてピンボケしているが、それは間違いなく目だった。黒目のない不気味な瞳がスマートフォンを捕え、そして直後、パシン、と弾かれる音とともに画面が一気に棚の外側に移動する。そして私がスマートフォンを拾い上げ、反転させたところで動画は終わった。
怖いという感情も強かったが、不気味な事この上ない異形に出会ったことが、私を謎に興奮させた。先ほどの動画をほかのやつらにも見せてやろう、そして棚を倒して、正体を拝んでやろう。恐ろしいことに、私はそんな感情に支配されたのだ。
スマートフォンをポケットにしまい、棚を離れようとする。しかし、足が動かないことに、私はその時ようやく気付いたのであった。
「あっ……」
わずか四センチ程度しかない棚の下の隙間から、二本の腕が伸びていた。そしてその先に付いていた手は、私の両足首をがっちりと掴んでいる。
ずる、ずると、そのコールタールのようなどす黒い何かが棚から這い出して来る。私は流石に先ほどまでの好奇心は消え去り、今はただ、ここから逃げたい、助けを呼びたい、そのような感情ばかりが積み重なっている。しかし、それは出来そうもない。黒い粘液のようなそれはじわじわと量を増していき、私の足から太腿を伝い、背中、腹、そして腕までも巻き込もうとしている。これは、もう無理だ。このまま食われてしまうのだろうと、覚悟を決めたとき。
「おーい、どした?」
先輩の声が聞こえた。いつまでも戻ってこない私を怪訝に思ったようで、様子を見に来たのだろう。その声と同時に、先ほどまで私にまとわりついていた黒い何かは一瞬にして消え去った。私は慌ててスマートフォンを手に取り、先ほど撮影した動画を確認しようとする。しかし、スマートフォンはそれっきり、もう二度と電源が入らなくなった。
あれからしばらく経つが、次の大掃除の時は、あの棚の下は埃だらけだった。どうやらあの黒い何かは、自分の棲み処に異物が侵入してくるのが嫌だったのだろう。
もしあの時先輩が来ていなかったら、私はどうなっていたのだろうか。そんなことを久々に思い出しながら、部屋の片隅の、普段誰も使わないゴミ箱に、ぐしゃぐしゃに丸めた紙ごみを放り込んだ。
――パシン――。
放り込んだはずのゴミは、何かに弾かれて飛び出してきてしまった。
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