道端の少女

 私の会社――とある新聞社――の20年上の先輩が退職した数日後の話である。来月には新人が一人入ってくるという話もあったため、先輩が使っていたデスクを掃除していたところ、興味深い原稿を入手した。先輩はかつてコラムを連載しており、そこに掲載するつもりでいたのかは定かではないが、内容的にも非常に完成度が高く、眠らせておくのが勿体無いと考えた。そこで先輩に確認したところ、この文書の存在自体は覚えていたが、別にそれ自体を公表しようがなんだろうが好きにしてよい、との返答をもらった。以下は、その原稿のうち、私がとても興味を持った部分の抜粋である。


   ***


 ――幽霊の類を信じる信じないという議論は、かねてより精神学者やオカルト学者、果ては医学や考古学のジャンルまで飛び火するほど複雑に続けられてきたものだ。一方で我が国日本の歴史を紐解いてみると、幽霊のみならず神、鬼、妖怪、精霊と、現実に存在しているか否かを(今の世で言う)科学で証明できないとされている者達への信仰というものは根強いものであり、前述したような議論において幽霊など存在しないと断言する学者であっても、神社や仏閣の存在に異議を唱えるものは少ない。この国においてそういった伝承における存在というものは歴史上重要な立場にあり、幽霊の存在を語るにはまず信教の問題から掘り下げて議論せねばならないという点において、今現在の幽霊議論は形骸化し、もはやその意味すらなくしているといえるだろう。

 私自身は幽霊について、いや、その他の科学で証明できないとされるもの全てにおいて、信じる信じないという議論は馬鹿馬鹿しいと感じているし、霊感というものを私が持ち合わせていないようで、不可思議な体験をすることも無かったが故に、そういった事柄に無頓着であるといえる。故に深夜の廃病院であろうがいわくつきのトンネルであろうが、私は躊躇することなく足を踏み入れることが出来る。霊など存在しないということを断言するつもりは毛頭ないが、見えぬものには見えぬし、見えるものには鮮明に見えるのであろうから、見えないのならばそれを気にした所で何が出来るわけでもなく、寧ろそういったものが見えないことを幸と捕らえるのも我々見えない側の人間にとっては重要な事柄では無いかと思う。見えぬものを見えるようにする努力は必要ではないであろうし、まして見えるということが異常であると押し付けるなど何ら利することは無く、それ自体は各個人の判断にゆだねるべき事柄であると考えている。一方で、そういった存在を信じる、信じないを問わず、わが国に伝わる伝承という観点から、わざわざいわくのある場所へ足を踏み入れ聖域を侵すような真似をはたらくのは、そういった伝承を信じるものやその土地への冒涜に他ならず、避けるべきことであると考える。

 だが、足を踏み入れたくなくても、踏み入れてしまうということはこの世の中において無限にあるだろう。それというのも、いわくつきの場所と言われているのは何も私有地だけではなく、急カーブであったり幹線道路の一角であったり、人が避けて通れぬ場所にこそ多いものであり、現に私が毎日、それこそ朝にも夜にも通る、家から出る際に避けて通れぬ場所にも、いわく付き、と呼ばれる場所がある。その場所は私の家から50m程度、私が住んでいる一軒家が立ち並ぶエリアから市街へと続く唯一の道の途中にある急カーブである。我々の住むこのエリアは市街から少し離れた高台に20軒程度の一軒家が立ち並んでいるものであり、市街地を一望できる一方で、長い坂道を下りて市街に行かねば商店のひとつも無い、そのルート一本が通行止めとなるだけで容易に陸の孤島となってしまう場所である。よって、いわくつきだからといってそのカーブを避けて生活することなど不可能なのである。

 このカーブは最近、事故が絶えぬ魔のカーブとして、その角にある大岩に住まう悪しき妖怪が事故を誘発しているのだと噂になり、街灯も人通りも少ない場所にあっても、水銀灯が真夜中も絶えずその周囲を煌々と照らし、昼間と比べても遜色が無いほどの明るさに保っているのだ。そこでの幽霊の目撃談は絶えず、後述する少女のほか、男であったり女であったり、目撃者は多数いるが、その内容はまちまちであり、それが真実か偽りか確認するすべは誰も持っていない。さて、前述したとおり、真夜中でもとても明るい交差点になったわけだが、事故が少ないのかと問われれば、現実にはそうではない。

 実際に事故にあった人間の話を聞く機会があった。その人は私の3軒隣に、70代の親と暮らししている50代半ばの女性であり、免許を取って以来一度も事故を起こしたことが無いという人だった。事故を起こしたのは、この区域に住んで10年あまり経過した後のこと。それだけ慣れ親しんだ道で、彼女は自らの車を道端にある大岩へ衝突させてしまったのだ。彼女の話は、非常に興味深いものであった。その日、たまたま深夜に母が高熱を出したため薬を買いに行こうとした時であった。深夜の1時を回っているというのに、そこになぜか黒髪の少女が座り込んでおり、それを避けようとしてハンドル操作を誤った、ということであった。

 実に奇怪なことである。深夜に、それも道端にしゃがみこんでいたという少女。それは実際のところ、事故の直後に車を降りて辺りを見回しても、どこにも存在していなかったという。

 だが、奇怪なのはそれだけではなかった。このエリアに住んでいるのは20家族あまり、その中で事故にあった、あるいは事故にあいそうになったという人間は6人にのぼり、それも全てこの5年間という、ごく最近の限られた期間の話である。奇妙なのはその証言である。前述したような少女を、その6人全員が見ていたというのだ。それも、姿形、服装、そしてしゃがみこんでいた場所に至るまで一言一句、申し合わせたかのように一致しているのが何よりも奇妙なことである。

 私がこの事故についてこうして詳細に知っている理由は、かつてこの一連の事故について取材したことがあるからだ。その頃、ちょうど世間ではオカルトブームが巻き起こり、わが誌でもそれについての特集をするという計画を練っていた。その話を小耳に挟んだ私は、そのカーブにて事故が頻発するという話だけは知っていたのを上司に話したところ、それについて取材をしてくるように私に打診があったのだ。顔見知りの人間に好奇心丸出しの名目にて取材に行くのは気が引けたものの、仕事上の命令とあれば断るわけにも行かず、結局私は事故にあった6人全員に取材をかけ、前述したような怪奇的な事実を記事にしたのだ。だが結局、私以外の記者の記事も含め全て出揃った頃には時既に遅く、オカルトブームにはわずかに間に合わず、結局その記事は何の話題になることもなかった。


 ――と、ここまで書いてきたが、ここまでの文章は、今現在の話ではないのを読者諸君に断っておく。ここまでの記事を書いたのは今から5年前、そして今、その記事から5年の月日を経た後にこの文章の続きを書いている。最初の事故から10年が経過した今頃になってこの話を思い出したのは、つい1ヶ月ほど前、私自身がその被験者となったからである。被験者、といっても、私自身が事故を起こしたわけではない。目撃した、そんな気がした、そんな生易しいものではない体験によって、私が前述したような考えを差し置いて、幽霊の存在について認める認めない以前の問題として、『体験した』者の一人となってしまった。未だにそれが幽霊かどうかを確認するすべは無い故に、前述したような考えの大半は今でも変わっていないものの、それをめぐる立場、とりわけ、霊魂と呼ばれるものへ抱く感情に、大きな変化があったのは紛れも無い事実である。以下は、1ヶ月前、私が体験したことの全てである。


 先月のことだ。深夜1時過ぎ、熟睡していた私をたたき起こしたのは上司から送られてきたメールに反応した携帯電話であった。ぶつぶつと独り言をつぶやきつつも携帯を開くと、隣町のデパートで大規模な爆発があったという旨の文面が書かれていた。それについてどうしろという指示はひとつたりとも書いていないが、そのメールが送られてきた時点で私に『仕事に行け』という無言の圧力をかけているのは紛れも無い事実。私は眠い目をこすりながらも普段の仕事着に身を包み、深夜の街へ繰り出したのである。

 実に当たり前な話ではあるが、そんな時間に誰が出歩いているはずもなし、いつものように原付に跨り市街へと続くいつもの道へ差し掛かるまで、誰一人と会うことも無かった。だが、下りの坂道へ差し掛かったところで状況は一変した。私が取材のとき何度も聞いた姿の少女が、噂どおり道の角にしゃがみこんでいたのだ。

 そんな異常事態にも、記者としての本能が勝ったのか。私は叫び声をあげることも思考停止することも無く少々驚いただけで、咄嗟に所有していたビデオカメラを回し、その少女がいるほうに向けた。ビデオカメラ越しでも、少女の姿ははっきりと見て取れる。私は少女が見えるか見えないかの距離を保ちつつ、相手に気づかれぬよう、そっとカメラを回し続けた。

 回し始めて2分。しゃがみこんだままの少女はまったく動く気配が無い。白く、季節に似つかわしくないワンピースを着た10代後半と思われる黒髪の少女は、ただじっとしゃがみこんでいる。……そうして見ているうちに、私はあることに気づいた。体はまったく動いていないように見えるが、横顔――ほとんど表情は見て取れないが――だけは小さく動いている。まるで何かを探すように。いったい何を探しているのだろう。そう思った私は、カメラのズーム機能を使い、少女から少々場所をずらし、少女の目線の先――と思われる辺り――へフォーカスをあわせる。……だが、結局何も見つかることはない。ある程度カメラで辺りを探してみた後、少女にフォーカスを合わせようとする。――が、いつの間にか少女の姿は無い。あわててカメラの画面から目を移すが、やはりその近くに少女はいない。こういったときは突然背後に現れるのが通説だと思い、不気味さを覚えながらも辺りを見回すが、やはり少女はいなかった。結局何も手がかりを得ることが出来ないまま、私はその後、件の爆発現場へ行き取材をこなし、明け方に家に戻った。


 一眠りした後、ちょうど仕事が休みだったため、私は少女を発見した周辺へと歩いて向かってみた。あの巨大な岩には車がぶつかったと思われる、車の塗装跡や掃除し切れなかった硝子の破片などが無数にあり、不気味さを露呈させているが、一方で少女がしゃがみこんでいた辺りや少女の目線の先は何も無く、ただアスファルトで固められた地面があるだけだ。私は少女が探していたものが何なのか気になり、あたりを見回す。あの動きは、おそらく何かを探していたのだ。霊を信じる信じないを論ずるのは、前述したとおり嫌いなことであったが、こうして見てしまった以上は行動あるのみ、それが私の記者としての考えであった。10分ほどじっくりと地面を観察する。しかし、そこには特に異常がない。それでは、と思い、今度は少し範囲を広げていろいろ探してみる。1時間、2時間、時間は無情にも過ぎ去っていく。何も収穫が無いまま、つかれきった私はふと顔を上げた。と、その瞬間、岩の陰で何かがきらりと光ったのが見えたのだ。あわてて光がした辺りを調べてみると、岩の隙間から、小さな、それこそちょうどあの少女の指に合いそうな大きさの、ひどく古ぼけて傷だらけになった指輪を見つけた。それを手に取り、私は確信した。少女はこれを探していたのだと。少女が探しものをしていたのか、そしてその指輪が目的のものだったのか、それらを確認するすべは無い。だが、私は本能的に、彼女が求め続け、探し続けていたものがこの指輪であると確信したのだ。今思えばそれが一種の霊感、本能的な『第六感』の一種であるということもいえるのだろうが、私はその前日に見た光景ばかりを頭に描いていたので、そんなことを考えている余裕は無かった。


 その日の夜のことである。日が暮れた頃にあらかじめ指輪を少女の目線の先と思われる辺りに置き、暗くなるのを待ち、昨日と同じ場所にカメラを持って待ち構えた。1時間、2時間、無駄な時が過ぎてゆく。そして、昨日とほぼ同じ、深夜1時過ぎになったころ、彼女は唐突に現れた。

 しゃがみこんだままの姿ではなかった。彼女は暗闇の中から、ゆっくりとあの場所に歩いてきたのだ。だが、どこか遠くから歩いてきた、という風ではない。突如暗闇に見えない扉が出現し、その扉から少女が現れた、そういった表現がもっとも適している。私はあわててカメラの電池残量とテープを確認し、夢中で少女に向けた。

 少女はひどくゆっくりとしたペースで先日と同じ場所へと歩き、そしてゆっくりとしゃがみこむ。と、今までの話であればそのままじっとしゃがみこんだまま、ということであったが、今日は様子が違う。私があらかじめ置いておいた指輪を発見し、少女はそれに手を伸ばしたのだ。手に取り、ゆっくりと立ち上がる少女。そして、私がカメラを向けていると、少女はゆっくりとこちらを向いた。『気づかれたか!』と焦ったが、少女は数秒間私の姿を確認すると、小さく笑って頭を下げた。言いようの無い恐怖感に駆られる私をよそに、少女の表情はとてもうれしそうで、生きている少女と比べても差を見つけられないほどであった。そして、そのまま少女は、私が見ている前で、ゆっくりと消えていった。その直後、暗い道に、指輪が地面に落ちる甲高い音だけが響いた。


 全てを見届けた後、私は家に帰って、昨日の分も合わせてテープを確認した。しかし驚くべきことに、画面ごしに確認できていたはずの少女の姿は映っておらず、ただ変化の無い風景の映像が映っているばかりであった。

 少女にとってあの指輪がどういうもので、どういう意味をもっていたのか、それについても確認するすべは無い。新聞をあさっては見たものの、それに関係しそうな記事を発見するには至らなかった。指輪はあの後、地面に置き去りにされたままになっていたそれを拾い上げ、近くの寺へと持ち込み供養してもらった。それ以来というもの、あの付近で幽霊を見かけたという人もいないし、事故をおこしそうになった、あるいは起こしたという話も、今現在の時点までは聞いていない。そして、私自身も、それ以来怪奇現象と呼ばれるものに遭遇したことは無い。もっとも、あれからはまだ一ヶ月しか経っていないが、なんとなく、本当になんとなくではあるが、少なくともあのカーブに於いては事故が多発するといういわく因縁は払拭されたのではないかと考えている。


   ***


 以上までが、先輩が書き残していった原稿の転載である。実に奇妙、奇怪な話ではないだろうか? だが、真に奇怪なのはこの後の話である。この記事が書かれたのは今からちょうど一年前。そして、つい先月の話である。覚せい剤で逮捕された男が、今度は殺人を自供したというニュースが世間をにぎわせた。その殺人というのは、男と婚約したまだ19歳の女性を、この原稿にある場所とまったく同じ場所に置き去りにした挙句引き返し、車でひき殺し遺棄したという、なんとも残虐な話である。このニュースの詳細は他社の地方版で小さく取り上げられただけであり、わが社の地方版や同業他社の全国版では「覚せい剤で逮捕された男が殺人の自供」という見出しが小さく掲載されただけである。それゆえに先輩もこのことは知らなかったようだが、私はその記事と先輩の原稿を見比べて唖然とした。勘のいい読者諸君はもう結末を予想していることだろうが、おそらくその勘は正しい。このニュースにて取り上げられていた、被害者とされる女性の、事件当日の外見。それはこの原稿に記載されているものと完全に一致しており、その上、この事件が起きたのは、この原稿の中で初めて事故が起こったとされる頃と一致する。そして何より、被疑者の供述は「何かを落としたようで、拾おうとしていたところを轢いた」というものであり、原稿中での少女の行動は、その瞬間の再現であるということも予想される。

 ともすれば、この原稿に登場する、事故にあった6人、そして先輩自身の体験したことはすべて真実なのだろう。だが、この話はそれで終わるものではない。この被害者とされる女性、被疑者の男が供述した名前と一致する女性は存在せず、同時期に行方不明の届けが出されていた人間も存在しない。何より、男の供述した場所からも遺体は発見されていない。そればかりか、彼女が住んでいたとされる住所は存在せず、彼女の写真を見せて聞き込みをしても何一つ情報を得られない。彼女が卒業したとされる高校や中学などの情報をいくら集めても、その少女が存在していたという証拠がひとつも得られない。つまり、この被害者が現実に存在していたという証拠が、何一つ存在していないのである。

 警察内部では、この事件自体が男の狂言ではないかとされ、この事件は完全に薬物乱用者の戯言とされて収束するという見方が強い。だが、これらが全て狂言であったとするならば、この先輩の原稿や、取材を受けたとされる人たちの目撃したもの、これらはいったい何なのか。真実を知りたいが、この原稿を持って警察に行ったところで笑われておしまいだろう。


 ――幽霊の類を信じる信じないという議論は、かねてより精神学者やオカルト学者、果ては医学や考古学のジャンルまで飛び火するほど複雑に続けられてきたものだ。


 先輩の原稿の書き出しである。そして、この議論は未だ収束する気配を見せることは無い。だが、現在の法律が霊魂の存在を認めていない以上、世間としては明確に存在しないという結論になる。ともすれば、前述のような奇妙な一致は、「偶然か戯曲」とされてしまうのだろうか?

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