「小説を書くのは楽しいけれど、楽しいだけじゃ仕事にはできないわ」
再び繰り出した古着と演劇と若者の街。日は駅舎の向こうへ沈みかけているが、空はまだ青く快晴と言える空模様だった。ちなみに快晴と聞くと、雲ひとつない青空を思い浮かべてしまうが、気象用語で定められている快晴とは雲量が一以下の場合の空を指す。雲量とは雲が空を覆う割合で、空に対する雲の割合が十分の一以下ならば快晴と定義される。つまり、雲ひとつない青空だけが快晴なのではなく、多少なら雲があっても快晴と言っていいのだ。どうだ! こういう雑学も小説を書く上で色々な資料を読むと得ることができる。
小説を書くって素晴らしい。知識が増えるんだ。
駅の改札口。寒空の下で誰に披露するわけでもない雑学を頭に浮かべながら周囲を見渡した。佐伯さんは見当たらないが待ち合わせ時間にはまだ早い。ま、気長に待とう。
ヨレヨレのダウンジャケットに手をツッコミ首をすくめる。心地よい緊張感が体を包む。もうすぐ運命の乙女、佐伯さんに会えるのだ。心も踊るというもんだ。折しも街はクリスマスムード一色である。商店街の軒先には仰々しい飾り付けがなされ、街灯のスピーカーからはやたら『シャンシャン』と鈴の音が入るBGMが流れている。去年まで耳障りに感じていたクリスマスという行事が、これほどまで高揚感を誘うものだったなんて。
街中に充満するクリスマスムードにあてられ、少し恍惚としていたら、「せーんぱいっ!」と背後から呼ぶ声がした。
振り向くより早く、小柄な身体が僕の背中に突き刺さる。
「どーんっ!! えへへ。待ちましたー?」
佐伯さんだ。
てっきり改札から出て来るものだと思っていたので、背後から現れるとは予想外であった。
「いや、ちょうど来たところだ」
佐伯さんの柔らかい感触が残る背中をさすって答える。
「ホントですかー、なら良かった」
ほのかに漂うのは佐伯さんのシャンプーか何かの香りだろう。なんて良い匂いなのだろう。甘く儚い花畑のような匂い。溶けちゃいそう。
僕を見上げて胸をなでおろす佐伯さん。今日も相変わらず可愛い。スキニーデニムのパンツに白いダッフルコートのボタンを締め、小さい頭の上には白いニット帽を被っている。
ああ。まるで雪の妖精、冬の天使だ。可憐だ。可憐すぎる。また一段と可愛くなったな佐伯さん。会うたびに可愛くなっていくけど、おばあちゃんになる頃にはどうなっちゃうんだろう。ウルトラ可愛いおばあちゃんになっちゃってるんじゃないかな。老人ホームでモテすぎて大変なことにならないかな、大丈夫かな?
「何をニヤニヤしてるんですかぁ?」
「な、なんでもない。それより、二次選考も通過するなんてすごいじゃないか。おめでとう」
「えへへー。ありがとうございますー。自分でも信じられないんですよ。びっくりしすぎでご飯も喉を通らないってこのことですね。嬉しくてドキドキして、意味もなく部屋の中をぐるぐる歩いちゃったり、今日だって用もないのに朝の五時には目が覚めちゃって、何度も選考結果のページをスマホで確認して、ニヤニヤしてベッドの上を転げ回ったり、ちょっと自分でもやばいなって思います」
ベッドで転げまわるほど楽しそうな佐伯さんを想像すると、微笑ましい。
「でも、こんなにテンションが上がっても、まだ最終選考が残ってますし、現実はそう甘くないって自分に言い聞かせようと何度も思うんですけど、佐伯も単純なので頬がずっと緩みっぱなしなのです」
鼻をこすり照れた笑いを浮かべる佐伯さん。そんな表情を見ていると僕だって嬉しくなってくる。一次選考で落選したときは佐伯さんの才能を妬んだが、今は違う。純粋に佐伯さんのことを応援できる。自分の小説が本になるかもしれないって思ったら浮かれないほうがおかしい。
「いいじゃないか。嬉しい時は喜ぶべきだよ。佐伯さんの努力が認められたんだ。僕も嬉しいし、きっと最終選考もいい結果になるよ」
「そんなこと言って、最終選考で落選したら笑うんでしょー」
「もちろん、大笑いしてやるよ」
「いじわるー」
佐伯さんは笑いながら僕を小突く。僕も自然と笑みがこぼれる。
「冗談だよ。さ、寒いし歩こうか」
「はーい」
並んで人ごみの中を歩いて行く。こんな時期にこうやって寄り添って歩いていたら、周りからはカップルだと思われちゃうかな。ぐふふ、ふふふ。
☆ ★
「かんぱーい!」
再び訪れた焼肉屋。ジョッキを重ねて、ビールを口に運ぶ。
久しぶりに飲んだアルコールはいつもより少しだけ苦く感じた。
「先輩って最近は何をされてるんですか?」
「僕か、別に僕は特に何もしてないぞ。フリーターだからな。のらりくらり暮らしているよ。うむ」
「就職とかは考えていないんですか?」
キョトンとした顔で尋ねてくる。うぐぐ。痛いところをついてくるなぁ。
僕自身としては小説家を目指してウェブに作品を投稿していて、いまもコンテストに向けて誠意執筆中なのだが、それは公言していないので、はたから見ればただのフリーターなわけだ。
先輩面で普段は偉そうにしているが、前途有望な若者から無邪気な目で問われると立つ瀬がない。
「ま、この時代、フリーターも正社員も給与は変わらない……どころか三〇代前半までならフリーターの方が稼げると統計もでているしな。終身雇用の時代でもないし、年功序列で給与が上がる時代でもない。正社員という肩書きに囚われずに自分を大切にして生きていくのも良いのではないか、と考えたりもしていてな」
目をそらして肉を網の上に乗せながら、とても曖昧なことを言ってお茶を濁す。
「ふーん。そういうものですかねぇ」
ちらりと覗くと佐伯さんは僕の言葉を咀嚼するように小難しい顔を傾げていた。
僕が肉をあらかた網の上に置き終えるまで、そんな顔をしていた佐伯さんだったが、僕がトングを置くと見計らったように口を開いた。
「……でも、結婚とか老後のことを考えるとフリーターって不利じゃありません?」
やはり納得がいかなかったようだ。
僕はもうこの現実的で夢のないイヤーな気持ちになる話は辞めたかったが、返答しないわけにもいかない。
「ま、老後のことなんてわからないさ。高齢化社会は加速しているし2050年には世界人口の18パーセントが65歳以上になるらしいぞ。僕たちの代なんてどうせ年金ももらえないだろう。別に結婚する予定だってないし。いつ南海トラフ地震が来るかもわからないし、長生きする可能性があるかどうかもわからないし、本当に来るかわからない未来の不安のために今を捨てるのは勿体無いぞ、きっと。うん。多分」
屁理屈というやつだ。自分で言ってて情けなくなることを口にして、ビールに手を伸ばす。
「まだ若いんですから、結婚くらいはできると思いますけど。……あ、でも、恋人とかは相変わらずいないんですよね?」
「相変わらずとは失礼な」
「だって、先輩から恋の話とかって聞いたことないですもん」
ムッとして見ると、小悪魔って感じの上目遣いでニヤニヤしてる。
くそ。可愛い顔で馬鹿にしおって。
「そ、そんなことはない。こう見えて僕だってモテるんだぞ」
虚勢をはってジョッキを口に運ぶ。
「えー、本当ですかぁ?」
全然信じていない様子の佐伯さん。
僕がモテるわけがないと思っているのだ。
「もし、先輩がいつまで立っても彼女の一人も出来ないっていうなら……」
「別に彼女ができないわけではない! 」
佐伯さんが何かを言おうとしているのを遮った。
「こ、この前だってな。バイト先の子に『好きです』なんて言われてしまったしな。困ったもんだよ。あはは」
……嘘ではない。確かに美樹本さんに好きと言われた。本当は『仕事に対して真面目なところが』というだけの話だったが。
「えっ……」と佐伯さんが絶句した。見ると佐伯さんの顔から笑顔が消えていた。よしよし、うまくいったぞ。僕は君の思っている以上にモテる男なのだよ。ふふふ。まごまごしてると、誰かに取られちゃうぞ。
「それって告白されたって事ですか? もしかして、この前に図書館で会ったビギャンさんですか?」
肉が焼ける七輪の向こうから、いつもと違う佐伯さんの声が聞こえた。
ビギャンさんって誰だっけ、と一瞬考えたが、アレだ。ビガンゴさんの変身姿だ。思い出すだけで腹立たしくなる無駄に美女な容姿であった。
「違う違う、そうじゃない。また別の子だね」
驚いている佐伯さんの顔を見て優越感を感じる。……ま、話は真実とは微妙に異なるのだが。
「ま、そんなことより、ほら肉が焼けたぞ」
佐伯さんは何か色々と僕に聞きたそうな顔をしているが、あまり突っ込まれても困るので、肉を佐伯さんの皿にとって話を終わらせようとした。
だが、佐伯さんは肉になど興味は示さず、「お受けするんですか?」となぜかマジなトーンで聞いてくる。
「う、うん? どうしようかな。恋愛感情があったわけじゃないしなー」
嘘だとばれたか? 返答に困る。
「もし、おつきあいするというなら……。いえ、どちらにせよ。うやむやにしてはいけませんよ。ちゃんと答えてあげてくださいね。きっとその子は勇気を振り絞って想いを打ち明けたんですから」
「わ、わかったよ……」
「どう答えたか、絶対教えてくださいよ」
佐伯さんは取ってあげた肉に手もつけず、身を乗り出して念を押してきたので、タジタジになって頷いた。
軽いはずみでついた嘘で、詰め寄られることになるとは思わなかった。
今更ウソだといえないし、困った。やはり嘘はいけないな。
そんなやりとりを佐伯さんとしているところに、楽しげな話し声を響かせて二人のお客さんがやって来た。店員に案内され僕らの隣のテーブルについたのは、いかつい坊主頭の男性と、栗色のふんわりヘアーの女性。
何気なく視線を向けた僕は思わず二度見する。
もしや、先日のオフ会で会った一日博士と緑川さんではないか?
とっさに顔を背ける。なぜこんな所にいるのだ。
もし二人に話しかけられたら、僕がライリーで小説を書いていることが佐伯さんにバレてしまうではないか。
佐伯さんは二人と面識があるはずだから、気づけば喜んで会話をするだろうが、佐伯さんは僕が二人を知っていることを知らない。二人だって僕と佐伯さんの関係は知らない。こりゃ厄介だぞ!
幸いにも佐伯さんも二人も互いの存在には気づいていない。なんとかやり過ごさないと。
ピンチだ。最大のピンチだ。
見ないように、見ないように、と顔を背けながらも二人の会話に聞き耳をたてる。
「あー、疲れた。今日は付き合ってくれてありがとね」
「いえいえ。俺もなんだかんだ楽しかったですよ。最後はたらふく食っておしまいですね」
「緑川さんホントによく食べるわね」
「そりゃ今日くらい食わなきゃやってられないですよ」
……やっぱり二人だった。他人の空似を期待したのだが、やはり本人だったようだ。
佐伯さんは気づいていないようだけど、こりゃ時間の問題だぞ。まずいぞ。
「先輩、どうしたんですか?」
急に挙動がおかしくなった僕に佐伯さんが声をかける。
意外と通るその声に、僕の隣の緑川さんが顔を向けるのが横目に見えた。ヤバい。気づかれる!
「あれ? もしかして君たち……」
と緑川さんがこちらに声を投げかけた瞬間、僕は立ち上がった。
「さ、佐伯さん!」緑川さんの声をかき消すように名を呼んで席を離れ、緑川さん達の視界を遮るように体を動かし、佐伯さんの耳元に顔を寄せる。
「な、なんですか? 先輩」
急に近づいた僕の顔に驚く佐伯さんの耳元で囁く。
「えっと、あの……。さっき食べた韓国海苔が前歯についちゃってるよ」
一瞬、ポカンとした佐伯さんだったが、ハッとした顔で口を閉じ、俯くと恥ずかしそうに「ちょっと化粧室に行って来ます」と席を立った。
もちろん嘘である。が、とっさの判断にしては悪くないと思う。
顔を真っ赤にした佐伯さんを見送った僕は、一つ深呼吸して振り向いた。
「緑川さん、博士。お久しぶりです。僕です」
二人に向かって頭を下げる。
「あー! やっぱり、君じゃないか! 今トイレに行ったのはさつきさんだろう!? なんで一緒にいるんだ!?」
坊主頭の緑川さんが、口を開けて驚いていて、その正面で一日博士は小首を傾げる。
「えっと、どちら様でしたっけ?」
彼女のとぼけた一言にズッコケそうになったが踏みとどまった。
そういえば、彼女は前回のオフ会では最初から酔っ払っていたな。二次会でもかなりの量を飲んだみたいだし、僕のことを覚えていないのか。
「博士、また忘れちゃったんですか? ほら、この前のオフ会で会ったじゃないですか! 二次会に向かう途中で腹痛で急に帰っちゃった彼ですよ!」
緑川さんがフォローしてくれるのだが、博士はその切れ長の瞳をパチクリするだけで要領を得ない。全然思い出していないようだった。
「まったく、博士はそういうところは本当にポンコツなんだから……」
緑川さんはいかついイガグリ頭を振って呆れている。
「ふーん。で、その君がなんで風香ちゃんと一緒にいるの?」
ここまで来て、この二人に隠すことはできなさそうだ。僕は観念して洗いざらい話をした。
「……なるほど。ということはさつきさんに会ったとしても、君とは初対面のふりをすればとりあえずオーケーってことだな」
緑川さんはなんと物分かりのいい人なのだろうか。
僕の説明を聞いても「どーゆーこと? ようするにどーゆーことなの?」とポンコツ具合を露呈してる博士女史とは大違いだ。
「だから、彼は元々さつきさんと知り合いだったんですって。だけど彼女には内緒でライリー作家をやっていて身バレはしたくないから、アカウント名については黙っててくれと言ってるんですよ」
緑川さんがもう一度博士に説明するが、
「あ、そういうことね。そっかそっか。じゃ改めて。はじめまして。私が一日博士です。いつも【tubuyaita-】で絡んでくれてありがとうね」
と、結局、博士は要領を得なかった。
「……いや、だから彼とはこの前のオフ会で会ったって言ってるじゃないですか」
「んん? そうだっけ?」
本当に前回のことを何にも覚えてないのだな。
「あ、さつきさんが帰ってきたぞ」
緑川さんが小さく叫んで僕の背を押す。
「ほら、席に戻って! 知らん顔してないといけないだろ」
大きな手のひらに押されて自席に戻った僕は視線を逸らしてスマホをいじるふりをした。
緑川さんも何事もなかったかのように博士の方を向いて雑談を始める。
博士だけが取り残される形で、綺麗な眉毛を歪め、眉間に皺を寄せて首を傾げている。結局、僕達の話についてこられなかったみたいだ。
バツの悪そうな顔をした佐伯さんが「すみませんでした」と照れた笑みを浮かべて席に着く。
海苔の件は嘘だったのだが、佐伯さんは僕に担がれたなどとは微塵も思ってないようだ。なんか申し訳ない気持ちになる。
「あ、あれー? もしかしてー!」
隣の席からの声。
緑川さんが実に下手くそな演技で驚いた声をあげたのだった。
「さつきさんじゃないか。びっくりだー。どうしたんだい、こんなところで」
緑川さんの声に振り向いた佐伯さんの顔がパッと明るくなる。
「え? 緑川さん! それに博士も!」
「風香ちゃん。この間は色々しでかしたみたいでごめんね。飲みすぎちゃってあんまり覚えてないけど」
緑川さんと違って状況を理解してない博士の方が、どっしりと構えている。馬鹿は強い。
「博士の酒乱ぶりはいつものことですから。気にしてません!それより今日はお二人でどうされたんですか?」
どんな酒乱ぶりを発揮したのか気になるところだが、佐伯さんはそれよりも彼らが二人でいることに気がいったようだ。
二人は顔を見合わせ、共犯者めいたバツの悪そうな顔をして答えに窮している。
ははん。わかったぞ。
「もしかしてデートですか?」
目を輝かせた佐伯さんが嬉しそうに聞く。
「バカ! ちげえよ」
緑川さんの声が大きくなる。
「さつきさんこそデートなんだろう?」
「ち、ちがいますよ! 私は高校の先輩と食事してたのです! それたけです」
「それがデートって言うんじゃないのか?」
「で、デート……ですか。これ、デートですか? 先輩?」
「そ、そんなことないだろっ!」
「もう照れちゃって若者はいいわねぇ」
「別に照れてないですよ!」
「でも顔が真っ赤よ」
一気に形勢逆転だ。おかしい。二人の関係性を暴こうとしたのに、今は二人に追い詰められている。
「それより、彼のこと紹介してよ風香ちゃん」
初対面という設定を思い出してか博士が僕のことを佐伯さんに尋ねる。いや、博士は天然だから本当に初対面だと思っているのだろう。
「あ、そうでした。ご紹介がまだでしたね。こちら、私の高校の先輩で……」
佐伯さんが僕を二人に紹介するから、僕は本名を名乗ってお辞儀をする。これで二人にはアカウント名も本名もバレたかたちになるが、状況を考えると仕方がない。
「実は今日、先輩とご一緒したのにはワケがあって……。せっかくだからお二人にもご報告しちゃいます」
「報告?」
きょとんとする博士に、佐伯さんはVサインを作る。
「丸川の二次選考、通過しました!」
「ええ?!」「すげー!」
二人が同時に歓声をあげる。
「すごい! やったじゃない」
「最終選考まで残るなんて凄い!よし、今日はお祝いだ! 俺が奢ろう!」
「私も出す出すー。店員さーん。ビール! 四つ! ……なに? まだ残ってるって? 飲み干しなさいよ、男でしょー」
「席を一つにまとめよう。店員さーん!」
身を乗り出した二人がガチャガチャと手際よく動き、気がつくと一つの卓を四人で囲んでいた。
改めて四人で杯を掲げる。
なみなみと注がれたビールをケロリとした顔で一気飲みする博士と緑川さん。その様子を見ていた佐伯さんも「よーし」と白く眩しい腕をまくる仕草をして、二人を真似て一気飲みをした。おいおい、そんな飲みかた、身体に悪いぞ。
……と思った僕だが、空になったジョッキを握ったままこちらを見る三人の圧力に負け、仕方なくビールを一気に飲み干す。
「よーし! これで私たちは仲間だ! 盃を交わしたのだ! これからもよろしくね!」
飲んだ瞬間に上機嫌で笑い始めた博士。
博士も緑川さんも酒が強いみたいで、すぐに次のビールを注文している。佐伯さんも「私もビール!」なんて手を挙げている。
僕だけが炭酸に満たされた腹を持て余す状況であった。
「で、あなたたちは結局、なに? 付き合ってるの?」
妖艶な笑みを浮かべ博士が訪ねてくる。な、なんてことを言いだすんだこの人は。
「いえいえ。滅相もありません!」
「ち、ちがいますよ!」
二人で慌てて否定する。その様を見て、緑川さんが楽しそうに噴き出した。
「コンビネーションがいいな」
「もう! からかわないでください!」
「風香ちゃん。顔が真っ赤よ」
「お酒のせいです!」
佐伯さんはジョッキを勢いよく煽ってプンッとそっぽを向く。
「そ、それより、お二人は今回のライリーコンの調子はどうなんですか?」
「んー。話題変えちゃうのー? いいけど、センパイ君はまだこの話を続けたそうな顔してるよ」
「してません! ライリーコンの話をしてくださいよ」
「ふふ、意外と可愛いところあるのね。まあいいわ。……私は今回はパス。読み専で楽しませてもらうわ。緑川さんは頑張ってるわよね」
「でも、どうかなぁ。まずは期限内に規定の文字数を超えなきゃならないからな。計画性のなさが出てるよ」
苦笑いの緑川さん。つられて、いやぁ僕も期間内に完結できるか怪しいですよ、なんて危うく自分の作品の話をしそうになって慌てて口をつぐんだ。自分の正体を隠しながら話すのって難しいんだな。
「どうして博士はコンテストに参加しないんですか? 来年こそ大賞をとってやるって意気込んでいたではないですか」
「え? そうだったかしらー」
「そうですよ。博士は今まで有言実行だったじゃないですか。それが、コンテスト自体に参加しないって聞いて、ちょっと心配になってしまいました。もしかして……」
博士のことを見つめたまま言葉を止める佐伯さん。見つめられた博士は綺麗な微笑み顔のまま、黙っている。
「……ふふ。やっぱり風香ちゃんは小説家に向いてるわね」
瞬きをしてウエーブがかった髪に触れる博士。僕の知らない大人の女性の色気だった。
「まだ口止めされてることだから、誰にも言わないでね」
博士は細く綺麗な人差し指を唇の前に立てて声を細める。
「実は……『ライカと僕』に書籍化の話が来たの」
「ええ!!」「やったー!!」
二人で叫ぶ。さっきの緑川さんたちの反応をそのまま返した感じになってしまった。
「博士とは【書籍化の話が来たら、朝昼晩とご飯を奢る】という賭けをしていてな。それで今日は一日、博士の奢りで飯を食いまくっていたのだ。がはは」
「やったじゃないですか! 僕も初めて読んだときは号泣でしたもん!」
喜びのあまり、初対面ということを忘れて口走ってしまった。
やばっ、と思った時には佐伯さんが不思議そうな顔で僕を見つめていた。
「……ん? あれ? 先輩は博士の作品をご覧になったことがあるんですか? 初対面ですよね?」
鋭い洞察力だ。とっさな言い訳が出来ず、しどろもどろになる。これはまずい。なんとか言い逃れをしなければ。
「いや、あの……。えっと。実は……ライリーの作品は何作か読んでたんだ。さつき風香名義の作品があることを何かの拍子で知ってさ。それで読んだ中に博士さんの作品もあったんだ。今、それを思い出したんだ」
「えー! 先輩、私の作品も読んでたんですか? なんだ、わざわざライリー越しに見なくても言ってくれれば原稿をお渡ししたのにー」
「いや、それは出来なかった。でも、佐伯さんの作品は凄く評価されてたし、改めて凄い才能があるんだって思っていたよ」
「そっかー、先輩もライリーを見てたんだー」と嬉しそうにつぶやく佐伯さんは博士が微笑みかける。
「風香ちゃんもきっといい話が舞い込むわよ。この調子で物語を書き続けていければね。きっと私よりも才能はあると思うもの」
「そんな書籍化が決まった大先生に言われると恐縮ですっ」
ぺこりと頭を下げて佐伯さんが笑う。
「書籍化は嬉しいけど、ようやくスタートラインに立ったって感じよ。一、二冊出版して、そのまま消えていく作家は数知れず。書籍化ってのはゴールのない持久走が始まるようなものだって、先輩作家の先生が言ってたわ。辛くても立ち止まったら後続にポンポン抜かれるの。走り続けるしかないのよ」
そうか。書籍化は僕みたいなただのボンクラ小説家志望にとってはゴール地点のような場所だけど、小説で食っていこうとする人にとってはスタート地点なんだ。僕にはその覚悟があるだろうか。
「小説を書くのは楽しいけれど、楽しいだけじゃ仕事にはできないわ」
確かに博士の言うことは何の職でも当てはまることだ。
「おいおーい。せっかくおめでたいって話なのに、なんで自分でネガティヴな方に持っていくんですか。空気が重くなっちゃったよ」
苦笑いの緑川さんが両手を打って皆を促す。
「ささ。ここはひとつ、気を取り直して、さつきさんの丸川大賞最終選考進出と、博士の『ライカと僕』の出版決定を祝して乾杯をしよう!」
緑川さんの音頭で僕らも強張っていた頬を緩めて、ジョッキを掲げた。
「では、皆々様。カンパーイっ!」
「かんぱい!」
弾けるビールの泡と皆の笑顔。
周りの皆が次のステージに立っていく姿を見て、僕のやる気も高まった。
絶対に、今回のライリーコンで大賞を取るぞ!
まだ、佐伯さんに正体を明かせない覆面作家の僕は人知れず心を燃やしたのだった。
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