「誰も読んでくれない小説を書くのはバカみたいだよ」
高校へ向かう電車の中。
僕はいつものように文庫本を広げていた。
混雑する車内には同じ学校の生徒が何人かいて、その中に佐伯さんもいた。
佐伯さんはその春に入学してきた一年生の女の子で、僕と同じ委員会に所属していた。
元気で明るくて面倒な事務仕事も率先して引き受ける献身的な子だけど、おっちょこちょいで天然ボケなところもあって、いい意味でも悪い意味でも委員会のムードメーカーであった。
だからといって、わざわざ朝の混雑した電車の中で、人混みをかき分けて近くに行くほど仲が良かったわけでもない。それに、彼女も何かの小説を読んでいたので邪魔をしてはいけないと僕は思ったのである。ジェントルである。
断っておくが、僕は女の子と話すのが苦手だったわけではないし、もしこちらから話しかけて、ちょっとでも嫌な顔をされたり、話が弾まなかったらどうしよう、などという弱気な心持ちの結果、話しかけなかったのでは決してない。僕はそういう意気地のない男ではない。念のため。
さて、僕は電車に乗り込むと、彼女が同じ車内にいることを確認して、あたかもたまたま車内を見渡したら見知った顔がいた、という表情を作りサラリと目だけで挨拶をして、視線を手元の小説に戻した。
我ながらクールで知的な感じを滲ませる洗練された動きであった。
『いつも先輩と電車の中で目が合っちゃう……。やだ私ったら心がざわざわする……ときめいちゃうよぉ……』
と無垢な後輩女子などは思ってしまっても無理はない。
……無理はないと思うのだが、佐伯さんは鈍感なのかウブなのか、全然僕に興味がなさそうだった。
だから、電車が一緒だろうがなんだろうが別に関係はない。
駅についても人の流れに身をまかせ、それぞれ一定の距離を保って高校まで歩くだけ。
それがいつもの朝の景色なのだ。
でも、その日は違った。違ったのだ。違ったんだからちょっと聞いてくださいよ。
電車を降りた途端に駆け寄って来た佐伯さんに、僕は肩を叩かれたのだ。
「先輩!」と呼ぶ声は興奮しているのか少し上ずっていた。
「これ! これ!」
ぴょんぴょん弾む佐伯さん。上下に揺れる赤いメガネの奥で、瞳をキラキラと輝かせる佐伯さんは一冊の本を突き出して来た。
それは今しがた僕が読んでいた小説だった。
「え? あれ? それ、あれ? 落とした?」
慌ててカバンの中を確認する。
電車の中で落としたものを、佐伯さんが拾ってくれたのだと思ったのだ。
でも、カバンの中にはしっかりとその文庫本が入っていた。
「えへへ」と照れ臭そうに笑って佐伯さんは言った。
「実は佐伯も同じ本を読んでいたのでしたっ」
彼女は照れた時に、自分のことを苗字で呼ぶ癖があった。
「先輩が同じ本を持っていたので、なんか嬉しくなっちゃって話しかけちゃいました」
上目遣いで、はにかんだ佐伯さんの顔を見た時、僕の心に矢が刺さった。ビリピリンと脳に閃光も走った。『これが運命の赤い糸というものなのだな!?』と直感で
ただの偶然と笑ってしまうのは簡単だが、考えてもみてくれたまえ。本を読むのが好きな高校生なんて、世にどれだけいると思う?
最新の調査では大学生の約半数が本を読む習慣がないという結果が出ている。これは大学生に限ったことではなく、日本人全体で読書をしない人が増えている現状なのだ。
それはそうだ。電車でも街でもみんなスマホだ。ネットに動画にゲーム。手軽な娯楽が溢れ放題だ。何も考えなくても楽しめる遊びはいくらでもある。
それにひきかえ読書はどうだ。
地味。暗い。難しい。
そんなイメージばかりではないか!?
読書は娯楽の中でもかなり頭を使う能動的な趣味だ。ぼーっとしていても見ることのできるアニメや、反射でボタンを押せば爽快なアクションが楽しめるビデオゲームとはわけが違う。
景色も登場人物も派手なアクションも全て言葉だけで表現されている。そして読者はその全てを頭の中だけで、自身の想像力と自らの経験を生かし思い浮かべなければならない。集中しなければ本など読めないから、友達と会話をしながら楽しむことなどできない。友達がいない僕のような男にはぴったり……違う!
えっと、つまり、読書とはとてつもなく孤独で孤高な感じの趣味なのだ。
さらに言えば小説を書くなんて話になってくると、もうさらに悲惨……じゃない。高尚な趣味と言えるだろう。えらいもう凄い。
話が脱線した。
ともかく、そんな孤高の天才的趣味を持つ人間が運命的に同じ時間に同じ作品を持って同じ電車の中にいたのだ。しかも、読んでいた小説は別に話題の新書でもなかったし、映画化やらドラマ化やらをされたものでもない。何年も前に出た単行本の文庫版(にしても最近ではない)だし、たまたまタイトルにつられて古本屋で買ったものだった。
こんな奇跡的な出来事があったら純粋な少年はどう思うだろうか。
偶然だ、と吐き捨てるほど僕は斜に構えてはいない。まっすぐで純粋な少年だった。ピュアボーイであった。
だから僕は思ったのだ。
『運命である!!』
馬鹿であるとあなたは言いますか?
……馬鹿であるかもしれませんね!
馬鹿ではあるかもしれないが、愛おしいとは思わないだろうか。
……思いますよね? だったらいいでしょう!?
『新郎新婦の恋の始まりは通学途中、偶然にも同じ小説を読んでいたロマンティックな場面から始まったのです』
……なんて結婚式で司会のお姉さんが言って、ウエディングドレス姿の佐伯さんが照れた顔でこっちを見たりなんかしちゃう妄想が一気に膨らんだってバチはあたらないだろう。男なんてそんなものなのだ。
並んで駅を出た僕たちは一緒に高校まで歩き、好きな作家や最近読んだ小説の話をした。
楽しかった。こんなに楽しい時間があるなんて、今まで気づかなかった。
学校に永遠にたどり着かなければいいのにと思った。
「こんなに読書の趣味が会う人は初めてですっ! 」
彼女はキラキラと眩しい笑顔を僕に向けた。とっても素敵な可愛い笑顔。額縁に入れて取っておきたいと思った。
その日から、委員会の空き時間には、佐伯さんとちょこちょこ話をするようになった。
佐伯さんは僕のことを大変な読書家の先輩だと思っていただろう。だけど、それは違った。確かに本は好きだが、佐伯さんと話した日以降、実は彼女の読みそうな作家の本を予測して片っ端から読んでいたのだ。運命の糸を手繰り寄せるための上等テクニックだったのである。愛の糸引きお兄さんと呼んでくれても構わないぞ。
会話を重ねるうちに佐伯さんが自分でも小説を書いている、ということを知った。
夢は小説家なのだそうだ。若いのに夢に向かって頑張っているなんて偉い。高校生の僕には夢などひとつもなかったし、受験生ではあったけれど受ける大学の志望動機など「まだ働きたくない。ダラダラしてたい」という恥ずかしいものでしかなかった。
夢を打ち明けた佐伯さんは予想外のことを言った。
「あの……。先輩。よかったら、佐伯の書いた小説を読んでくれませんか?」
赤眼鏡の向こうの瞳が恥ずかしそうに揺れていた。その白い頬が少し紅潮していた。両方の細い指先を絡ませてモジモジしていた。
上目遣いの佐伯さんの攻撃力は半端じゃなかった。危うく心臓がメルトしちゃうところだった。
いかんいかん。
僕は悟られないように深呼吸をして、己に喝を入れた。おい、こらボンクラしっかり自分を保て、と。
せっかく小説を書いたのだから誰かに読んでほしい、と彼女が思うのは当然のことだ。
そりゃそうだ。誰も読んでくれない小説を書くなんてバカみたいだよ。
きっと佐伯さんは同じような小説を好んでいる人に感想を聞きたかっただけだ。彼女にとってはそれだけのことなのだ。先走るな。彼女はこの僕に先輩として、読者としての意見を求めているだけなのだ。早まるな。心を静めよ。
「当たり前じゃないか。じゃんじゃん持ってきてくれたまえ」
僕が答えると、嬉しそうに佐伯さんは頷いた。
その時から佐伯さんと僕とのつながりは特別なものになったのだと思う。小説という共通の趣味によって繋がった関係だ。
彼女は誰とでも仲良く話をするが、僕以外の友人たちとは小説の話はしないようだったし、僕も佐伯さん以外と本の話をすることはなかった。
いや待てよ僕の場合はそもそも友達が少ないから佐伯さんの場合とは少し違うのだが、まあそれは置いておいて、小説の話は二人を繋ぐ架け橋であったのだ。
他の人と話しているときの佐伯さんはこんなに楽しそうじゃなかった。
実際に彼女と話してる僕が言うのだから間違いない。
彼女は僕と小説のことを話している時が一番楽しそうだったのだ。
だが、不思議なことに、話は弾んでも、二人の関係性は進展などせず、いつまでたってもただの仲の良い先輩と後輩のままで、共通の話題があるから盛り上がるけれど、それ以外では、例えば帰り道にどっか小洒落たカフェに行ったり二人で休みの日に出掛けたりするようなコトには発展しなかった。
学校の中ではそれなりに仲の良い先輩と後輩。それだけだった。
「佐伯さんはアレか。あの、彼氏とかはつくらないのか?」
一度聞いたことがある。何気ないそぶりで顔も見ずに聞いたけど、めちゃくちゃ勇気を振り絞って聞いたのだ。
佐伯さんの反応次第では「僕も佐伯さんみたいな話の合う子となら付き合っても良いと思わないこともないぞ」などと冗談っぽく言ってみたりなんかしちゃって、佐伯さんはポッて頬を赤らめて「わ、私も先輩みたいな人となら……」なんてモジモジしちゃって。
『それが新郎新婦の付き合うきっかけとなったのです』……なんて結婚式でお姉さんがスライドショーでも流しながら喋るという妄想も膨らみまくったのだが、佐伯さんが言った答えは全然違って。
今でも覚えてる。ちょっと小首を傾げて考えた佐伯さんはいつもの調子で言った。
「うーん。今が楽しいんで、いらないかもですー」
帰り道の駅前のコンビニの前を通り過ぎる時だった。夕暮れで、ランドセル背負った小学生が二、三人走っていて、ランドセルで揺れるキーホルダーは色あせたピカチュウ。そんな風景までなぜか覚えてる。
今思えば、なんてことのない台詞だ。別に僕は佐伯さんに告白したわけでもないし、彼女も僕をフったわけでもない。
ただ佐伯さんが現状において特別な関係性を有する恋人を欲していない、と言っただけ。それ以上でもそれ以下でもないし、聞かれたから答えたってだけのなにげない言葉。
でも、その一言で僕の心は打ちのめされ萎びてしまった。
彼氏はいらない。つまり、現状として恋人候補はいない。
ということは、僕ももちろん彼氏候補ではない。要するに佐伯さんは好きな人がいない。つまり、僕のことは好きじゃない。好きじゃないなら、佐伯さんにとって僕は「どーでもいい人」ってことだ。
瀕死の一撃じゃないか!
よし!死のう!
多摩川に飛び込んで死んでしまおうと思ったが、僕は踏みとどまった。
まてよ。そもそも僕は別に佐伯さんに恋などしていないではないか。
そうだった。危ない。前提条件を忘れていた。
そうだ、僕と佐伯さんは単に運命の赤い糸で結ばれているだけであって、そこに僕の自由意志などないのだ。
佐伯さんが恋人などいらないと言っても、悲しくもなんともないし、精神や体調を崩すようなことでもないぞ、と。
ちょっと食事が喉を通らなくなって十キロほど痩せて、骨と皮になりかけて数少ない友人にも本気で心配されたけど、なんてことはなかったのだ。いや、本当に。マジで。
そんなわけで、僕はどうせ彼女の恋人候補でもないのだから、ただの趣味の合う優しい先輩として紳士的に立ち振る舞っていこうと決めたのだった。
小説に関しても贔屓目では見ずにしっかり読んで意見を言おう。忌憚ない意見を述べまくろう。
うーん。なんと大人なのだろう。尊敬に値する。僕がもしそんな偉大な先輩を持つ後輩の赤メガネ少女だったとしたら、絶対に恋に落ちる。間違いない。間違いないんだ。
……だけど、佐伯さんはやっぱりいつまでたっても、僕に対して、そういった雰囲気を醸し出すことはなかった。おかしい。運命の糸は確かに小指に絡まっているはずなのに。
高校を卒業しても、嬉しい誤算で佐伯さんが僕に小説を読ませるという不思議な関係は続いていた。
けれど、佐伯さんは運命の赤い糸に全然気づくそぶりも見せなかった。
僕だけが佐伯さんと会うたびに心に謎の騒ぎを起こしていた。
それは大学生になっても、卒業してフリーターになった今でもだ。
なぜだろう。謎だ。こんど一回病院にでもいこうかしらん。
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