Ⅱ 逃走の手段としてのオデュッセイア

「み、見かけによらず遠慮しないね……?」


 ウーティス、と名乗った女性の顔が少しだけ引きつっていた。


「す、すみません、食べることには目がなくて……」

「ははっ、そんな焦らなくてもいいよ。幸せそうにいっぱい食べてもらったほうが食材も供された甲斐があるってもんでしょ……ハハハッ」


 なんだかもう諦めたようにもうかがえた。

 すみません……でも食べる口と手は止められないんです……!


 ウーティスさん――占い師をしていたお姉さんがおごってくれるというので、こうしてファミレスで……と、悪いクセが出てしまった。食べ物が絡むと本当にリミッターが外れちゃうんだ、わたし……元のわたしもそうだったのかな……?


 ほんとうは知らない人相手には警戒したほうがいいんだろうけど……


 重度の人見知りのはずなのに……助けてもらったことからの安心感だろうか。この人を前から知っているかのように、心を許してしまっている自分がいる。


「それにしても驚いたよ。私でも読めない『相』があるなんて」


 とてもちょっとやそっとじゃ信じられる話じゃないんだけど、ウーティスさんには手で触れた人の『相』――それまでその人が生きていく中で蓄積してきた『記憶』が見えるらしい。


 これなんていうんだっけ、サイコ、メランコリー……?


「昔の物語を思い起こさせるっていうの? 私はそういうの好きでね。低価格のファミレスなんだけど、ここにはけっこう絵画がかかってて、いやまあもちろんレプリカなんだけど……雰囲気がいいよね」


「え? そ、そうですね」

「まだ花より団子って感じだね。うんうん、若いうちはそれでいいよ」


 ……あなたもそんなに歳が変わらないように見えるんですけど。

 と言いかけたところで、やめた。



「――こんな話を知ってる?」


 と、ここでウーティスさんが切り出す。

 これまでの会話はこのためのクッションだったのかな。


「ある事情から長い旅をすることになった旅人の話。途中で、一つ目の巨人に行く手を阻まれる。旅の同行者が食べられてしまう中、お酒を飲ませて寝かせたスキに巨人の目を潰し、旅人は逃げることに成功したんだ」


 ……食事中ですよ?


「ははは、そんな露骨にイヤそうな顔をしないでよ。ちょっとやそっとの話題でその食欲は削がれないでしょ?」

「き、決めつけないでくださいよ……」


 そ、そうかもしれないけど……!

 急に恥ずかしくなって食べる手を止めた。


「ははっ、まあ待ってよ。何もメル、キミの手を止めることが目的じゃない。本題はここからよ」



 その後聞かされた話は以下のようなものだった。

 仲間の巨人たちが誰にやられたのかを尋ねたのだけどこの巨人は『何者でもないウーティス』としか言えなかった。おかげで旅人は巨人たちの追手を逃れることができたのだとか。


 つまり……

 目を潰されちゃった巨人さんは『ウーティス』という名前を額面通り受け取ったけど、お仲間さんは『ウーティス』という言葉を「何者でもない」という意味のほうに解釈するしかないから食い違いが生まれた……ということでいいのかな?


 ……頓智みたい。


「わかる? 大事なことは、旅人はほんとうの名前を一時的にでも失って『何者でもない』存在になったことで、みずからの命を救った、という事実」


「……つまりは、あなたのその名前もほんとうのものじゃない……?」


 少し意地悪な追求だったかもしれない。

 ウーティスさんは一瞬だけ表情を強張らせたが、すぐに元の、人の良さそうな笑顔を作ってみせる。

 このあたりは占い師さんとして人と接していくことで磨かれたのかな。


「……私のことよりもキミだよ、メル・アイヴィー」

「わ、わたし……?」


「アナグラム、ってわかる?」


「……い、いえ……」


 わたしの反応を見て、持っていたスプーンで字を書くようなしぐさをして補足を入れる。


「言葉の単語を入れ替えることで別の言葉にすること。たとえばMEL IVYというアルファベットを入れ替えたらMY VEIL――わたしのヴェールってなるでしょ?」

 

 会ってからいちばんのドヤ顔で言われましても……

 単なる言葉遊びじゃないですか。


 まで喉に出かかったが、口にすることはできなかった。

 ウーティスさんはここから急に神妙な面持ちに切り替えてくる。



「私には感じるの。アナグラムによってキミは守られていると。キミにとって真実を隠している邪魔者のようにも感じられているであろうヴェールが、私に触れるなノリ・メ・タンゲレ――と警告しているように」


 の、海苔、メレンゲ……? 

 わけがわからない。

 占い師ってみんなこんなふうにケムに巻くような話し方をするの……? 


「キミは過去について知りたいとひそかに思ってるかもしれない。でも、そんなことを忘れて生きていたほうが幸せ、ってこともあるってことだよ」


 ……そ、そうかもしれない。でも……! それでも……!


「それでも……わたしは知りたいんです! って言いたげね」

「……わたしのヴェールの奥底にしまわれた記憶は決して幸福なものじゃないかもしれません」


 わたしが記憶を閉ざしてまで封じ込めたかったものは、わたしにとって辛いものなのかもしれない。でもそんな可能性だってずっと考えてきてそのうえで……知りたいと思ったって……!


「……どんなわたしだって、それもわたしの一部だって受け入れます。このままいつまでも借り物の……『何者でもない』状態は、イヤなんです……!」


「――! ……ああもう、わかったわかった。泣くな泣くな。私としても『相』が読めなかったのは初めてだったからね……それがなぜなのかを突き止めたいと思ってる。キミの記憶探し、手伝ってあげるよ」



 ――!



「本当ですか! ……で、でもわたし、お金なんて」


「お代なんか取らないから安心してよ。……どうせたぶん次ごちそうしてもたぶんこんだけ食うんでしょ? もうお金なんて気にしないことにするわ」


「……す、すみません……」


 これが、『何者でもない者』と名乗った少し不思議な占い師さんとの出会い。

 以降わたしと彼女は毎日のように顔を合わせ、同じ時間を過ごしていくことになるのだった。

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