孵化

「俺が拾ってきたアレ、そんなに重大なやつだったのかな。返事も来ないよ」

 食堂で薄い雑炊のようなスープを啜りながら下里はぼやいた。

 真宇はなんと声を掛ければよいのか分からず黙々と味気のないパンのようなものを頬張っている。

「研究するのが仕事なのはわかるけどさ、難しい事俺にはわかんねえしメシ抜いてまでやる必要あるのかって思うんだ。食べなきゃ死んじゃうんだよ」

 こんなまずいものでもさ、とそれを指さした。

 レパートリーは豊富ではない。地球時代からの習慣に合わせて地球時間の24時間ごとにメニューは変わる。

 乙級エンジニアの彼らは毎食のレパートリーは2種類だ。階級が上がればさらに種類が増えるらしい。

「あの子は甲級の研究員だしきっともっといいものも食べられる。この退屈な船での暮らしで唯一の楽しみなのに」

 元々が研究施設として建造された宇宙ステーションであり、その特性から研究者候補や研究者に対しては好待遇が用意されている。

 既に出発から100年の歴史を持つここではいつかの新鮮さは失われ、エンジニア達は日々船の修繕に駆り出され、研究者たちは変わらず職務を遂行するという差別化が生まれていた。

 申し訳程度に娯楽設備がないわけではないが、ほぼすべての乗組員たちは生まれてからずっと船の中での生活を送っているため既に飽きてしまっている。年配の乗組員たちが今と変わり映えのない昔話をするためにたまに集まっている程度だ。

 それよりも唯一、空腹という欲求を満たしてくれる食事の方が体力を奪うばかりの娯楽などというものよりも健全かつ満足感を得られるものという認識になっている。

「やあ、ここにいたか」

 この船において研究者とエンジニアといういわば身分違いの珍しい仲を理解してくれる飛高は下里にとっては心の許せる相手だ。

「あ、飛高さん。さっきはどうもありがとうございました」

 真宇もぺこりと会釈をする。それを受け飛高も会釈を返した。

「構わない。最近じゃ日夜ヘイズ対策研究とは名ばかりのおしゃべりばかりで退屈していたところだ。サンプルが無い事には研究などしようがなくてね。彼女たちにもいい刺激になる機会だ」

 彼はあまり研究会議には顔を出さない。そのせいもあり『はぐれ者』と他の職員からは認識されているようだがその公平な価値観について飛高は彼を信用している。

「あそこまでのめりこむとは思っていなかったがね。体には気を付けるように言ったのだが」

 真宇はいつの間にか弾力に富むパンのおかわりを持ってきてもぐもぐと食べている。

「もしよければ食事、持っていきたいんですが……少しでも二水に食べてほしくて」

 ふむ、と少し考えた後飛高は頷いた。

「私も戻らねばなるまいし、任せよう。研究棟のP生研チャンバーにいるはずだ。私の権限で一時立ち入りを承認しておく」

「ありがとうございます」

 飛高も二水の熱意を見込んではいるのだが、そこに水を差すような無粋なことは研究者としての彼はできなかった。下里なら問題ないだろう。

「それでは、おやすみ。君達もあまり夜更かしはしないようにな」

 飛高はそう言い残し席を離れていった。それを見て真宇も立ち上がる。

「真宇はいかないの?」

 彼は眠そうに目をこすり、手を振った。

「わかったよ。おやすみ」

 手軽に食べられるようにと真宇が先ほど食べていたスポンジ状の食べ物を二つ注文する。灰色の塊がトレイに乗せられた。

 それを持って二水の元へ歩いていく。

 研究棟へ立ち入るのは彼にとって初めてのことだった。

 研究者、それも所属棟の職員でなければ通常は立ち入ることすらできない機密の空間だ。

 胸を高鳴らせながらゲートの認証システムに飛高からの承認メッセージを転送すると、重々しくゲートが開かれた。

 中は通常の金属むき出しの無機質なものとは異なり清潔に、そして質素に彩られていた。

 所々に造花の緑が同じステーション内とは思えない鮮やかさを見せる。

 つくづく身分の差を感じた瞬間である。

 さらに歩いていくと『P生研 主任:飛高(特)』のプレートが見えた。

「ここか……」

 再び扉の認証システムにメッセージを転送する。

 扉が開くとすぐにロビーのような空間があり、さらに奥にもうひとつ扉があった。

 それを潜ると正面に巨大な水槽のようなチャンバーがあり、そこに二水はいた。

 トレイを持ちながらチャンバーに近付く飛高。

 しかし様子がおかしい。

 彼女は裸でその場に座っている。

 さらにその足元にはあちこちに塗料を零したように赤い液体が飛散していた。

 そして、彼女の他には何もなかった。

 本来彼女がチャンバーの外から見ていたはずのあの白い卵も。

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