ニューラルの先に::3.2 来店
はたして、薫は富田を休ませる気があったのか。
富田としては家に帰ってしっかり身体を休めようと考えていたが、椅子から立ち上がった時にそれができないと悟った。立ち上がろうと腰を上げた瞬間、膝から力が抜けてしまったのだ。椅子に戻る有様は転んでしまったかのようだった。立ち上がることもままならない脚でどうやって駅まで歩いて電車に乗って自転車をこげるだろうか。
だからといって端末の操作だとか会計だとかをするための椅子で身体を休めることなどできない。背後に振り返れば壁際のソファが待ち構えていた。何がなんでもソファに辿り着く必要があった。
自力で立ち上がることは諦めた。テーブルに手をつきながらも立ち上がり、腕に体重をかけつつ壁際まで移動して、壁伝いにソファへ向かった。ほんの二メートルもない距離なのにえらい時間がかかってしまう。それほど身体が参っているということを如実に示している。
ソファに横たわればすぐに眠れそうものだったが、あまりに疲れすぎているのか、まるで寝られる気がしなかった。目をつぶっても疲れている感覚ばかりが鋭くなっていって、死んだように動かないでいるのが精一杯だった。
それだけならまだよかった。移動を始めた頃合いからメッセージが届くようになってきた。チャットアプリに対して連絡をよこしてくるのは、店の中にいないかもしれないと気を使った結果なのだろう。薫は管理室にこもってたくさんの情報を分析してくれているはずで、高田を追うためには大切なことだった。必要なことだし、求めていること。
でも、端末でも通知音が鳴るしスマートフォンでも通知音が鳴るし。スマートフォンはマナーモードにすればよかったけれども、端末の通知音を消すためには時間をかけて来た道を戻らなければならなかった。疲れた身体にはできないこと、だからそっとして欲しかった。
繁く連絡をしてくれる薫はがんばっている。がんばっているのは分かっているが、耳障り。何が分かったのかを知る気が起きないし、文句を言うなんてとてもじゃないができなかった。ただ音が鳴るに任せるばかりである。
ぼうっと天井を眺めて心を無にすればあたかも何も聞こえないような精神状態となるのではと思い立ってみる。しかしごく直前に銃撃された富田には到底無理な話だった。まして撃ってきた相手が高田なのだ。住人が大家に対して牙を向いたのだ。怖いが、同時に心配だった。これを心の中から排除することができようか。
メンタルとして音を聞こえなくする方法を考えた末にイヤホンで耳を塞ぐという、心を無にするよりもよっぽど着実な方法に行き着いた。気がついたときにはあまりのしょうもなさに力が抜けてしまうほど。
ややあってからようやく、手の届く範囲にイヤホンはないかとあたりを見て回るものの、商品棚に上げられない在庫がかごに押し込まれているばかりで、それらしいものが見当たらなかった。ヘッドセットの一つぐらいあってもよかったが、けれども中古パーツとしてヘッドセットやイヤホンの類を買い取った覚えはしばらくなかったし、そもそも店に人が来るのも久しくなかった。
あるとすれば、一か月以上前に入荷した新品の物ぐらい。店内中央の棚に吊るしてあるケースを見ようとして――
見えなかった。ものが邪魔をしているわけではなかった。スーツが富田とイヤホンの間を邪魔していた。
ああ、客だ珍しい、なんてぼんやり考えていた。端末の前に立って一体何をしているのだろう、もしかして店の中の商品を購入したいのではあるまいか。だから端末の前に立って、会計をしてくれるのを待っているのだろう。
富田が何もせずただ横たわっている中、スーツが、
「あの」
と声をかけてきて、その瞬間に富田を待っていることに気づいた。店員は富田だけしかいないのだから当然のことだった。
まともに考えられない頭に無理やり叩き起こして、接客をしなければならないという意識で疲労を追いやった。半ばパニックになりつつ起き上がろうとするが、しかし身体は正直だった。一切の支えなしに立ち上がろうとしても十分な力が脚に入らなくて、今度は前のめりに床へ転げてしまった。
床の冷たさに少しばかり頭が冷えたのか、スーツ姿の人物がいるという状況を落ち着いて考えられるようになった。しかしすぐに気を取り乱してしまうのは、店を閉めたことを思い出したからだった。辛いけれどもまだ動けた身体を引きずってシャッターを閉めた、つまりは、誰も入ってくることができないはずだった。
スーツはどこから入ってきた?
出入り口に目をやると、外の日差しが床を照らしているではないか。遮られているはずの光が入ってくるだなんて、原因は一つしか考えられなかった。
「どうやってシャッターを開けたのですか。ちゃんと閉めたのに、今日はもう閉店ですから」
シャッターを開けられる人間がどうしていようものか。富田以外に鍵を持っている人間はいない。にもかかわらず出入り口を破って店主の前にいるのだ。さびれていることをよいことに盗みに入ってきたのではないか。盗むものも対してないのにわざわざ狙ってくるのはどういう気持ちか。こんな店に押し入らなくても。
「盗るものなんてまともにありませんよ、こんな店では」
諦めて帰って欲しい。
富田の願いはまるで聞こえていない、スーツは、黒人の男はその場から動かなかった。日本語すら通じないことを考えれば絶体絶命というほかなかった。
「いえ、そんなつもりはないです」
見た目で判断してはならないが、まるで生まれてこの方ずっと日本に住んでいたかのような流暢な喋り口だった。
「シャッターについてはすみません、ごにょごにょして開けてしまいました。洋くんに急ぎの用事でしたので」
「急ぎの用事? 今日は疲れているので後にしてもらえませんか」
「すみませんが、洋くんの命に関わるかもしれないことなのです」
「今も命に関わりそうなほど疲れているのですが」
未だ立ち上がれない。
「本当に撃たれるかも知れませんよ」
男の一言が耳に入った途端に心臓が暴れまわった。気がついたときにはその場に立ち上がって男に迫っていた。デスクに手をつき前のめりになって男を捉えた。
「どうしてそのことを知っているのですか」
「我々の情報網で分からないことはありませんよ」
「そもそもあなたは誰なんですか。何で俺のことを知っている? 俺がついさっき巻き込まれたことを知っている?」
「高田さんや藤田さんの話を聞いてから、勝手ながら監視をさせてもらっていましてね。私が暮らしている場所なので、念の為とは思っていましたが」
「ちょっと待って、『暮らしている』? どういうことですか」
「いやいや洋くん、見た目はなるべく近くしたつもりなのですが」
仮想マンションに暮らしている人が現実に現れたとしたら『たらこ』なる人物と『たぬぽん』なる人物が頭に浮かんだのだが、その人たちは最初の契約の時以外ほとんど連絡を取ったことはない。サービスを提供する側とされる側のドライな関係、何か知らせたいことがあれば直接乗り込むよりも先にメールなりメッセージで問い合わせがあるはずだった。
「いや、だって、その」
ちょっと待て。男に対してどう呼ばれた? 男は富田のことを『洋くん』と口にしていたのではなかったか?
富田は知っている。一人だけ、その呼び方をする人物を知っている。
マンションの住人だ。
黒い肌の人物。VRの世界ではもっと黒い肌をして、もっと普通な歳のとり方をした壮年といった雰囲気。
正面の男は、アメリカンスタイルのバイクにまたがりながらソードオフショットガンを掲げそうな感じだった。
「ハイタカ、さん?」
満足げに大きく頷くのは結構だが、富田には到底納得できないのである。富田の知っているハイタカは間違いなく野良人工知能、ハイタカが使っていた言葉ではスタンドアロンの存在であるはずだった。
「こうやってリアルに私がいることを不思議に思っているのでしょう。ですがね、コンピュータがあればよいのですよ」
スーツは腕をまくると手首のあたりをいじり始めた。ちょうど血管のあるあたりに爪を立てていた。缶ジュースのプルタブを起こそうとして繰り返していれば、ベリッと皮が、というか皮と肉とがめくれ上がる。まじまじと見てしまった富田の腕は鳥肌が駆け巡った。
「ほら、これを見てください。この身体は人間の生身ではないんです」
えぐれた傷口は生肉のグロテスクさは全くない。肉のように見える部分は柔らかなプラスチックの濁った色合い。ハイタカが示す先にはLANケーブルを挿す金具が見えた。
「その身体は一体何なのですか」
「私がリアルで活動できるように作られた、いわばサイボーグのようなものですよ」
技術系のネットメディアでも聞いたことのない、未知の技術だった。
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