ニューラルの先に::2.救護措置

ニューラルの先に::2.1 野良AI

 冷静に考えてみれば、店の店主が店舗そっちのけで自前のサーバーのバックアップシステムを再構築していても何ら問題がないというのは、それはそれで問題だった。店を閉めていたわけではなくて、レジの近くの作業スペースで構築作業をしていたが、一切の妨げなしに順調に進捗するわけだ。心の片隅ではいつもどおりと考えるようにしている富田がいたけれども、それでも時折出入り口から誰かが入ってくるかもと想像して端末のモニターから顔を上げるのだった。



 結論から言ってしまおう、珍しく人がやってきた。もっと言ってしまえば、富田が作業している中、鬼気迫った様子で転がり込んできたのだ。



 言葉通り。モニター下部のタスクバーで体をしこたま削りながら。



 ちょうど一通りの設定を終わらせて、正しく動作するかどうか確認をしている最中だった。バックアップしたものをリストアしている最中、処理が終わるのを待っているときだった。



 端末に滑り込む人工知能は富田と目が合うなり、悲鳴を上げながらモニターの奥に奥に知りをこすりながら逃げていく。あたかも目の前にいると富田が想像を絶するほどの恐怖であるかのようだった。



 遠近法で小さくなる人工知能。



 妙にみすぼらしいワンピース。



「あの、お、落ち着いてもらえますか」



 モニターの中に彼女は明らかに異常だった。まるで大事な何かが壊れて壁に向かって歩き続けるゲームのキャラクターのような。ストッパーを失ったように泣きわめいている。あれは、泣いているのか? 泣く、なんて言葉で片づけられるのか? ただただしっくり来る言葉が見つからなくて、右往左往している間に激しい何かだけが膨らんで耐えられなくなっているようだった。



 店内に響く女性の悲鳴は精神に辛かった。落ち着くまでの時間の間、自分が悪いわけではないのに決まりが悪かった。しばらくして落ち着いた彼女に声をかける時も腫れ物を触るように扱った。話を聞くにも、何となくただならぬ理由がありそうな気がしたから仮想空間の応接室に案内した。



 彼女は佳世と名乗った。丁寧にハッシュコードも言おうとしていたが、これは富田が制した。



「それで、どうしてうちのところに来たのでしょう。理由、というよりも経緯でしょうか。教えてもらっても?」



「私は、逃げてきました」



「逃げてきた、まあそうでしょう。ひどい慌てぶりでしたから。何から逃げてきたのですか、怖い人に襲われたとか、嫌がらせされたとか? もしかして使っていたサーバーがおかしくなって命からがら脱出したとかですか」



「人に襲われた、が正しいです。その、信じてもらえないでしょうが、私に襲われて、その、逃げてきました。がむしゃらで、気がついたら先ほどの場所に」



「ええと、その、誰に襲われたと?」



「私です。正確には、私の中のおかしくなった部分ですが」



 とんちをしたいわけではなかった。登場人物は二人いるはずだった。襲う側と襲われる側だ。佳世の話では、しかし、登場人物は一人しかいなかった。佳世。富田のVRモデルの前で椅子に腰掛けている弱々しい女性だけ。



 すっかり疲れきった顔を見るに、嘘を言っているようでないから余計に混乱するのである。



「すみません、ちょっと理解ができないのですが、佳世さんが佳世さんを襲って、佳世さんはここに逃げてきたと?」



「はい。その、私もよく分かっていないのですが、急に私がおかしくなってしまって、無理やり正常な部分だけ引き剥がしたんです。それで、おかしくなった私と、今ここにいる私とに分かれて、こうやって逃げてきました」



「本当のこと、なのですかそれ」



「信じられないのはしょうがありません。私自身も信じられません。私が私でなくなってゆく感覚が恐ろしくて、逃げようと思ったらもう一人の私が、おかしい何かに満たされた私がいて、奪われた私がいて」



 彼女の話す言葉がたちまちうるみはじめて、しまいには言葉が出せなくなって机に突っ伏してしまった。



 感情が高ぶっていては何も話が聞けなくて、ただただ困惑するしかできなかった。佳世の口にした言葉一つ一つを取り上げてみては理解してみようとする。急におかしくなる、引き剥がす、佳世が二人になる。おかしくなった方と、奪われた方と。



 人工知能にはそのような芸当ができるものか。人間ではないから人間離れしたことができたっておかしいことではないだろうが、富田の中にある常識には受け入れがたかった。理解できなかった。常識からかけ離れすぎていた。



 佳世の気持ちが落ち着くまでの間に受け入れようと性懲りもなく反芻し続けていくも無理な話だった。



「すみません、すごく不安定みたいで、ちょっとしたことでもこうやって耐えられないほどの悲しみに襲われてしまうのです。本当の私はこんなに弱々しい性格ではなかったのですが。おかしな私に全部持って行かれてしまったようです」



「引き剥がされた、という時にですか」



「はい、考えられるのはそのあたりでしょうか」



 いろいろ考えるのを諦めることにした。



「困っていることは分かりましたが、この後はどうするつもりなのですか。逃げてきたとなれば、相手が探しているかもしれないのですよね」



「すみません、私、そこまで考えていなくて。とにかく逃げなきゃ逃げなきゃって思っていて、だから、何も考えていないです」



「このままここを出ても、もしかしたら襲われるかもしれないんですよね。その、おかしい方と」



「分からないです。もしかしたら追いかけてくるかもしれません」



 『おかしい』何者かがどこかにいて、いつ襲ってくるか分からない。どこで見ているか分からない。そんな状況の中で放り出されて苦しくならないわけがない。良心がずたずたになってしまうのは簡単に予想できた。かわいそうな彼女に対してできることなんて簡単だ。



 富田は何者だ? パーツショップの店主か? いいや、マンションの運営だ。



「なら、しばらくここにいるといいでしょう。すぐに部屋は用意できませんし、タダに、というわけにもいかないですが」



「そんな、人様の端末を間借りするだなんて、私はたまたま転がり込んできただけなのですよ」



「家は仮想空間のマンションもやっているんです。今日はここを使ってもらうとして、明日には部屋を用意できますから」



「もったいないほどのお言葉です。一人で落ち着ける場所を用意いただけるなら願ってもいません。家賃も払います。お借りできますか」

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