おもちゃ遊び::8.ミツキと佳世

 VR装置の内側の、目がくらむような明るさ。強烈な臭気。どれだけ眠たくても否応がなしに目を覚まさせるのは、身動きがほとんど取れない空間で動かなくなってしまうことを避けるための仕組みなのだろうか。装置内に立ち込めるこの匂いを西村の鼻は知っていた。



 右手を動かしたところにあるボタンを押せば明かりが落ちた。同時に空気が抜けるような音があたりを吹き荒れ、ゆっくりと蓋が開いてゆく。



 装置が開くのを待ち構えていたように異臭が装置の中に侵入して内部の異臭と混ざり合う。暴力的な匂いで高い装置の中を自らのもので汚してしまいそうになるのをこらえて上半身を起こせば、床には吐瀉物が撒き散らされていた。



 佳世の吐いたもの。もしやと思って頭に触れてみれば、気味の悪いぬめりが手に襲いかかってきた。振り返って装置の中を覗けば、頭があったあたりはまるでそこで吐いたかのようになっていた。



 佳世がここにいた。吐き気を催す異臭の中で言葉にできない気持ちに包まれた。現実であるこの部屋に、あのベッドに、佳世が腰掛けていたのだ。ちょうどその場所は見ただけでは彼女が座っていたかどうかは分からない。変わったところがあるようには思えない。周りを見てみればどうだろう。吐瀉物でぐちゃぐちゃになったテーブルの上。ヘリから溢れ出して床に垂れるそれの粘度が高いこと。



 テーブルの惨状こそが佳世がいた証、西村には十分だった。



 佳世がここにいた。



 胸が一杯になる一方で、部屋に充満する匂いは我慢できるレベルを超えていた。たとえ佳世の口から産み出されたものだとしても、いい加減に耐え難かった。



 西村が立ち上がったところを待ち構えていたかのように端末のモニターに明かりが灯った。だが見慣れたものが表示されることはなくて、急に画面全体が真っ白になった。電源が入ったところで端末が生きている様子に見えたものの、どうも中身が壊れてしまったらしい。



 電源が入ってしまったのも何かおかしくなってしまったからなのだろう。西村は電源ポタンに手を伸ばした。強制シャットダウンをして処分をするつもりだった。長押しすれば端末は止まる。止まるはずだった。



 モニターは白さを保ったままだった。



「としくん、聞こえるかしら」



 それどころか佳世が現れた。白い画面を歩くさまは何かをもったいぶっているかのような。手にしている鎖は一体何だ? 画面の外に伸びるチェーンの太さは見たことのない太さだった。ペットをつなぐ鎖にしては太すぎた。



「としくん、私はとしくんに尽くしてきたつもりだったのだけれど、としくんはそうは考えていなかったのかしら」



「いや、どういう」



 佳世が乱暴に鎖を引っ張ると何者かが転がり出てきた。バランスを崩しながら飛び出してきて、しまいには佳世の足元に倒れてしまった。拳を握りしめているのは痛みに耐えているのか。



 少ししてから、痛みが落ち着いたのであろうか、顔をあげて佳世を睨みつけた。



 衣服の一切をまとっていないミツキが佳世を睨み上げていた。



 西村は状況が飲みこめなかった。佳世の言葉はまだ覚えている。佳世はミツキのことは知らないと言っていたではないか。知らないどころか全く認識できていなかった。汚物を吐き出しながら証言していたではないか。



「きっとあれだね、私よりも魅力的に映ってしまったのだろうね。でも大丈夫だよ、私はとしくんのことを愛しているから、としくんを責めるなんてしないよ。責めるのはこいつ、私からとしくんを奪おうとしたのだから」



 佳世が片手で鎖を引っ張り上げる。ミツキ引き上げられて首吊りのような格好になっている。佳世の細い腕、柔らかい手からは想像できない動きだった。佳世の力で人を簡単に吊り上げるなんてできるわけがなかった。



 急に力を抜いてミツキを地面に叩き落とす。ミツキが弾んだ。漏れるうめきの痛々しさは自分自身が攻撃されているかのような錯覚をもたらす。



「佳世、一体何をしているんだよ。急にそんな乱暴なことをして。今すぐミツキさんを話しなさい」



「としくん、私はとしくんを責めるつもりはないのだけれど、反省はしてほしいのよ? 私というものがありながら、どうして他の女の悪さに負けてしまうのかしら。だから、ちゃんと見て」



 地面でむせるミツキに対して、今度は脇を抱きかかえるようにして立たせた。ミツキが自身の足で立てるようになったかと思ったら、次の瞬間には平手打ちを見舞った。



 佳世はどうする?



 ぶたれた頬をただ触るだけだった。表情を一切変えなかった。



 西村は佳世の振る舞いに震えた。ミツキに対して反射的な振る舞いをしないところが恐怖だった。無慈悲な顔。なりふり構わない彼女がなりふり構わずミツキに仕打ちを与えようとしている。



 まずいことしか起こらない。



「佳世、止めるんだ。お願いだから、乱暴な姿を見せるのはやめて」



 なりふり構わないのに、ちゃんと受け答えするものだから余計に恐ろしかった。



「言ったでしょう? ちゃんと見て。としくんをたぶらかした輩がどうなるか。としくんは優しいから、これを見たらよくない人とつきあうなんて考えなくなるはずだからね」



 佳世は鎖を引き寄せてミツキを手の届く範囲に引き寄せた。そうしてから手首を掴んで、



「こうなるからね」



とただ言うだけだった。



 言っただけ。佳世の手は何もしているようには見えなかった。



 にもかかわらず、ミツキの左腕がありえない動きで荒ぶり始めた。関節が四つに増えて、それぞれがヌンチャクのように暴れまわっている。VRゲームの中で時々起きる、体が地面やら壁やらにめり込んだり、まるで骨がないかのようなぐにゃぐにゃな状態で明後日の方向に飛んでいってしまうものに近い。描画エンジンがもたらす不自然な描画のようだった。



 ミツキの絶叫がスピーカーを割らんばかりだった。



「やめて! 何をしたの! おかしい! 何かがおかしい!」



 ミツキの体の異常は止まらなかった。今度は胴体がぐるぐるねじれ始めた。右腕は複雑骨折、もはや形が腕の形ではなくなってしまった。脚がぐちゃぐちゃになったら立てなくなって地面に転がった。かと思えば中空に飛び上がってぐるぐる回り始めた。



 悲鳴は途絶えない。



 止まらない。



 『それ』を眺める佳世は微笑んでいた。

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