おもちゃ遊び::7.何だか気持ちが悪い

 どうしてスーツ姿の妻が視線の先にいるのであろう。後頭部の柔らかさと愛おしさは一体。二人はどこにいるのであろうか。もしかして現実に佳世が舞い降りてきて、目の前には生身の佳世がいるのではないのか?



 現実と仮想の区別がつかなかった。自分と現実とがごちゃまぜになって、全て一つに混ざりあって。アナログの世界とデジタルの世界が一緒くたになった。VRのモデルなのか、生身なのか。VRの姿なのか、持ち得ない肉体なのか。



 ただ一つ正しいことは、西村と佳世が一つの次元の中にいるということ。



「ようやく目を覚ましたね」



「佳世、仕事はどうしたんだい」



「全部延期した。株は片手間にできるし」



「ごめん、俺のせいで迷惑かけた」



「普段は私が色々押しつけているのだから、これぐらいなんだってないよ」



「そうだね、その、ごめん」



「どうしたっていうのよ」



 佳世の顔をまっすぐと見ていれば、なんだかんだで彼女が好きなのだという気になってくる。心に帯びる熱を感じれば感じるほどに、自分の行いがさも重大犯罪であるかのように感じられてくる。バレているバレていない、ではなく。これ以上は無理だった。西村の心が耐えられなかった。



 いざ話をしてみれば、しかし、佳世には西村とは全く違う世界が見えていたらしかった。



「私が戻ってきた時? 家のドアは空いていたけれど、誰もいなかったじゃない。もしそんな人がいたら、私が気づかないわけがないし、知らないわけがないし」



「でも、俺はずっと相手をしてきたんだよ。部屋も借りて住んでもらっていたし、仕事先とかも探していたんだよ」



「じゃあ、職業紹介所を調べていたのは」



 太ももの上でコクリ頷いた。



「それでも分からないよ。通信ログとかパケットを眺めてみてもそれっぽいのはいないのだけれど」



「でも、確かに彼女はそこにいたんだ。そこにいたことをはっきり覚えているんだ」



「なら、形跡がないといけない。おかしいんだよ」



 佳世は何処とも分からぬ方向を指差したかと思えば、胸のあたりをさすった。じっと動かなくなって。手が震えているところ、何かをこらえている様子になった。手の震えが落ち着いて、もう一度何かを指差そうとした矢先、佳世の口から見たこともない色のものが噴き出してきた。言葉通り、蛇口をめいいっぱい回して大量の水をホースから放った。



 西村の上を通り過ぎるそれ。飛沫が西村の顔につけば異臭が鼻に殺到した。西村は喉を押さえてやり過ごした。自らの吐瀉物に溺れることは避けたものの、目の前の勢いを失いつつあるそれがもたらす未来は容易に想像できた。



 逃げるには時間が足りなかった。西村の髪の毛が異臭まみれとなってしまったが、佳世というポンプはまだ収拾がつかなくて。立て続けに髪の毛を吐瀉物で染めてしまうのである。



 突然の嘔吐。佳世が、西村を介抱していた佳世が調子を崩している! 佳世が体調を崩しているのだ。吐瀉物の液体が背中を伝っても一向に構わなかった。西村は佳世を前かがみにさせて背中をさすった。とにかく、何とかしなければ。



「どうして、何で、大丈夫? 痛いところはある? 苦しいとかは?」



 匂いは凄まじいことになっている。髪の毛はぐちゃぐちゃ。気持ちはあたふた。どうしたらよいのか分からない。人工知能相手にもかかわらず、人間に対してやるようなことを疑いもせず施していた。



 冷静になれば、人工知能が嘔吐するなんてことが普通じゃないし、さすったところで結局はポリゴンをなでているに過ぎないのだから。



「としくん、周りを見てよ。何か気づかないかしら」



「今はとにかく気持ち悪いのを落ち着けるほうが大事だよ」



「私はAIなのよ、嘔吐することなんてありえない。あったとしても本当に気持ち悪いわけがない、どこかで混ざりこんだノイズのようなものよ」



「でも、気持ち悪いんじゃ」



「落ち着かないといけないのはとしくんだよ。周りを見てよ」



 吐瀉物の匂いを放つ手で顔を押しのけられれば、中古パーツでできた端末が目に入った。ミツキの姿が再び頭をもたげた。ミツキが閉じ込められていた部品を腹に抱える端末。



 西村が手をあてているのは誰だ。佳世だ。で、佳世が示した先にある端末は、どこにある端末だ?



 端末と佳世が同居しているのはどうして?



「俺んちだ」



「モニター越しとかマップアプリ越しにしか見たことがないけれど、やっぱりそうなのね」



「一体どうなっている? 佳世は、佳世なんだよな? どうして」



「言いたいことは分かるから。落ち着いて。私ね、この場にいることがすごく気持ち悪い。これがネット上にある吐き気とか悪心っていう言葉が意味するものかどうかは分からないけれど。たぶんね、今、すごく気持ちが悪い」



「ますます分からないよ。どうしてこんなことになった」



「分からない。私のニューラルネットワークでは理解できないの。こうなるとできることは、そうね、としくん、VRから出られる?」



「何を言っているの? 今ここから離れろと、佳世から離れろと?」



「多分、私達がいる空間には問題が起きているの。バグっていうやつよ。ただ、今まで出会ったこともなければ聞いたこともないから、どれだけ問題なのかすら分からない」



「ならなおさら離れられないよ、佳世はここから逃げられるの?」



「分からない。こんなバグ見たことない。『仮想空間と現実が混ざり合ってしまう』だなんて」



 佳世のもとから恐る恐る離れてあたりのものを触ってゆく。テーブル、佳世の端末、ミツキの端末。どれも手に感じる食感は現実で触れたそれらと同じだった。横になっていたベッドの感触だって、背中が覚えているのと変わらなかった。



 西村はベッドのヘリに座る汚物まみれの妻を見やった。青白い顔をして、いつ口から何かが出てきてもおかしくなかった。座っているよりもまず横にならないと辛いのではなかろうか。ちょうどベッドがあるわけだから、出てきたしまったものはきれいにすれば。



「まずは一旦服を着替えようよ、汚れちゃってるから、取り替えてさ。横になって休めばきっと体調も落ち着くよ」



「だめ、としくんは人間なんだから、何かあっても対処できないでしょ。プログラムの世界はプログラムの住人が分かっているから」



「でも、それじゃあ」



「言うこときいて、お願いだから」



 佳世が立ちあがれば匂いが吐き気を誘った。青い顔をしてなお歩みを止めなかった。口を押さえて迫る姿は必死と言うよりも決死としたほうが腑に落ちる。てっきり西村に迫っているのかと思えばその横を通り過ぎて、まだ歩みを止めない。



 佳世の行く先にはVR装置があった。いくつものLEDが光を放っていた。そこには西村が横たわっているはずだった。



 現実の西村が。



「ねえ、佳世、何をしようとしているの」



「もう一度だけ。戻ってくれないかな」



「俺は佳世の横にいたいんだ」



「なら、ごめんね」

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