六 ひとつながりの日②

     ▽▽▽▽▽▽


「あー……こりゃ、二本か三本は逝ったかな」

 茹だるように暑かったのが、嘘みたいだ。唐紅のお天道はじりじりと照りつけているというのに、身体はひどく冷めている。アースに電流が流れていくように、俺の体温も前進から噴き出たあぶら汗に混じって解けだしていった。

 肋骨は何本か折れただろう。微かに走る痛みが、それを告げていた。恐らくそれだけじゃない。踏んばった足も筋を痛めているだろうし、最悪折れている。この調子だと、腕もどちらかポキリと逝ったかもしれない。

 段々とやって来る痛みに身を委ねる。うーん、右だ。右が折れてやがる。参ったな、これじゃこれからどうしたもんか。しかも優子を人込みのそばに置いてきてしまった。誰かに連れ去られてないだろうか。心配だ。人間、大怪我を負う事故に遭った時、痛みとかそういうことよりもまず目先の心配をするらしいが、本当だな。意識は虚ろだが、痛みなんてどうでもよくなってきた。

「どうして」

 間一髪で助けた女性が、静かに呻いた。

「どうして助けたの……私を……」

「そりゃあ、飛び降りている人がいたら、助けるのが人の道だろ」

 もっとも、とあるアメコミヒーローは、それで非難されることになったけれども。

「どうして……私が死なないと、助からないのに」

「そうか。自分の命を賭してでも、身体を投げ打ってでも守りたいものがあるんだな、アンタには。いつかの俺にも、そういうものがあったなあ」

 おっと訂正。今もある。

「私が死ねば……弟は助かるのに……! どうして、どうして助けたの!」

 俺の腕を振りほどき、スーツ姿の女性は激昂気味に叫んだ。

「私が死ぬ! そうすれば保険が下りる! 弟の手術費が払える! 弟の病気は治る! それですべてが上手くいくの! だから、そのためなら自分の命なんかいくらでも差し出すのに、どうして邪魔をするの!」

「そんな、俺が人非人みたいな言いぐさは止してくれよ」

 それにさ。

 いくらでもとは言うが、命は一度きりなんだぜ。

 俺は起き上がって服についた汚れを払……えない。身体が言うことを聞かない。あー。どうも肉体は痛みで支配され始めたみたいだ。意識はいやにはっきりしてるって言うのに、視界はまどろみがかって暗くなる。少々無理がたたったみたいだ。神経を擂り潰す痛みに押し切られる。

 俺は身じろぎ一つできないまま、ゆっくりと世界から隔離されていった。


「――――命を賭して、守りたいものを守る、か」

 誰かがそう呟くのを聞きながら。


「……あんたの考え、俺は正しいと思う反面、間違っているとも思う」

 意識を失った男と、そのそばにへたり込んでいる女性。

 初めは何が起こっているのか理解が追い付かなかったが、追いかけていたヒロトが女性を受け止め、その衝撃で地面を転げていったのを見て、すべてを察した。

「おう、俺だ。金池一丁目中央通り、××記念病院近くで怪我人が発生した。ああ。怪我人もだが、野次馬の整理が必要だ。おう。至急、応援を頼む」

 携帯で同僚に連絡しながら、野次馬の注目の的になっている二人を見やる。ヒロトはまあ、大丈夫だろう。このくらいで死にはしない。特別な人間だからな。

「話の腰を折って悪い」

 俺は俯く女性のそばに屈んだ。

「弟さんを命を賭けてでも守りたい。分かる、分かるぜ。その気持ちは痛いほど分かる。その考えは間違っちゃいない。だが、警察官って立場としても、もちろん一人の人間としても、それを行動に移すという考えだけは残念ながら肯定できない」

「どうして? 大切な人のために命を落とすことの、どこが悪いの」

「そうだな。自分が死んだあと、残された人の気持ちを考えたことがあるか?」

 涙をぼろぼろこぼしていた女性の口が、ぴたっと閉じる。

「命を賭けて守りたいものがあったとしても、その最後……命だけは絶対に捨てちゃいけない。理論的に言ってみようか。愛しているから命を賭けるのが正しいとすれば、命を賭けないから愛していないというのは正しいとなる。ん、ちょっと分かりにくくなったかな」

 俺は頭を掻きながら苦笑する。

「言ってただろ。そこにぶっ倒れてるバカが、『命を粗末にするな』って」

 慣れないことを言うもんじゃない。ぽりぽりと頬を掻く。

「しかしまあ、なんだ。なかなか分かったもんじゃないよな。大切なものに命を捧げてはいけないとあっちゃあ、俺もどうしたもんか悩んだもんだ」

 声をかけるでもなく、かといって独り言なわけでもなく、俺はやけに早く駆けつけた救急隊員を見て思った。ああ、ここ病院の近くじゃないか。

 どうにか息のあるヒロトを見届けてから、雑踏に紛れていく。

 俺にはまだ、やらなければならないことがある。


「大切なものをどうするかなんて……そんなの、決まっている」

 すれ違った誰かが、そう言った気がした。


「答えはひとつだ。父さんに昔、教えられた」

 不慣れなタキシードに身を包んだ俺は、人込みの中では妙に浮いた存在だったが、それでも構わない。

 俺は仰向けに倒れた男と、涙に顔を歪める女の人を見下ろしながら言う。

「大切なもの――大切な人に対して、できること。それは、大切な人の幸福を『喜ぶ』ことだ。そのためなら、ある程度の犠牲を払ってもいいと俺は思う。だけど、死んで消えてしまったらダメだ。喜ぶことができないから」

「でも、命を捨てないと、その幸福だって、ないのよ」

 女性は涙を拭いながら、俺の言葉に反証を挙げた。

「私が死ぬことで初めて救われるの。だから命を捧げることの、何がいけないの」

「分からない。俺はあんたのことを知らない」

「だったら、余計な口出しをしないで。私のことなんて、何も知らないくせに」

 初対面相手によくもぬけぬけと。

 まあ、俺も同じようなもんか。

 俺は胸ポケットに入れた煙草を取り出しながら、呟く。

「確かに、今出会ったばかりの俺が、偉そうなことを語る資格はないかもしれないな。悪かった。だけどなんというか、見過ごせなかったんだ。このあと急ぎの用事があるから、さっさと行っちまおうとも思ったけど、どうしてもな」

 紫煙はゆるやかにたなびきながら、空へ、空へ。

「俺は今から、大切な人の幸福を祝いに行く。それが俺の、大切な人にできる唯一のことだからだ。あんたにもそんな人が、そう思ってくれる人が、いるだろう」

 あ、俺今、すごくクサいこと言ってるな。

 少し笑いそうになりながらも、俺は言葉を紡いだ。

「あんたが大切に思う人がいるように、あんたを大切に思う人だっている。見知らぬ俺が言うのもナンセンスだけどな。おっと、時間だ」

 式の時間が迫っている。のんびりしている場合じゃない。俺は俺で、面白そうなことを思いついてしまったんだ。

「じゃあな。アンタにも、そんなひとがいるといいな」

 駆けつけた救急隊員と入れ違いになりながら、俺は野次馬から足を外す。


「……由紀! お前なにしてんだ!」

 ひときわ大きな声が聞こえたのは、俺が人込みを抜けたくらいだっただろうか。

 太陽は相変わらず、輝き続けていた。




 定義で言えば、名前の知らない通りすがりの人は他人。

 いつも同じ場所で見かける、それでも名前を知らない人は知人。

 名前を知っていて、いつも一緒にいるべき存在は、隣人。


 ならば、俺の隣人とは。


「――――由紀!」

 人の海を掻き分けていって、行きついた先で、ようやく大事を起こしているのが由紀だと分かった。隣では見知らぬ男が汚れた服と共に寝転がっていた。すぐに救急隊員に担架で運ばれていったけど、彼が助けてくれたんだろうか。

「お前なにしてんだ、ビルの屋上から飛び降りるなんて」

「智志……」

 気丈な由紀の顔は、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっていた。

 それでも俺は、必死の思いで由紀を抱き寄せた。

「なにがそこまでお前を追い詰めたんだよ。まあお前のことだから、最近あまり話を聞かない弟に何かあって、そのために自殺しようとしてたとかそんなことだろうけどよ。何がどうだとか詳しいことは分かんねえけど」

「ど、どうしてそこまで」

「だいたい分かんだよ、お前がとりそうな行動は」

 腕の中で、由紀の身体が震える。

 ああ、やっと分かってきた。俺の生きていく意味と、その理由。

「もっと、頼れよ。俺を。そりゃ、しがないコンビニの店員とかクソみたいなことしかやってねーけどよ。お前のこと誰よりも知ってるのは俺だ。俺のこと、誰よりも知ってるのもお前だ。先ず俺を頼らねーでどうするんだ。こう見えても俺、生活はケチだから貯金はあるんだぞ」

「……何それ、バッカみたい」

「バカでもなんでも構うもんか。俺はもう決めた」

 由紀が、俺の服の裾を強く握った。

「俺は、お前を守って生きていく。お前と一緒に今を歩いて、明日を夢見て生きていく。俺が決めたことだ。嫌だなんて言ったって連れて行くからな」

 あ、俺今、すごくクサいこと言っているな。

 周囲の視線がいささか気になったが、次の瞬間、そんなのはどうでもよくなった。

「……ホント、バカで強情なんだから、マリオは」

 由紀は、瞳をにじませながらも、能天気な笑顔を浮かべた。

 そうだ。実に短絡的だけど、これでいい。

 このままひとりで生きたところで、というか、どんな生き方をしたところで、何十年かすれば俺は老人になって、朽ち果てる。

 だったらその時寂寞に包まれないように、変わっていくしかない。

 隣人と一緒に、生きていけばいい。

 周りから、ささやかな拍手が聞こえたような気がした。がんばれと、声をかけられたような気もした。恥ずかしさで顔をあげることもままならない。

 でも、ああ、こうやって由紀を抱き寄せているだけでも幸せだな。なんて童貞みたいな考えを巡らせながらも、俺を引っ掴む由紀のささやかな胸の感触を押し付けられて、調子に乗っているのもやっぱり童貞だなーと思った。



 それは、暑い六月十日のことだった。


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