六 ひとつながりの日①

かり、と軽快な音を立てながら、からあげはみるみる私の胃袋へ吸い込まれていった。

「ごちそーさま」

 つまようじで歯の間をこそぎながら私は店を出る。

 うーむ、空が眩しい。ヒキコモリの私にとっては恨めしいほどの晴天模様だ。まあヒキコモリと言ってもこうやってネットサーフィンの合間合間で外出するので、どちらかというとニートよりのヒキコモリというのが正しい。

 現実味を帯びた言い方をすれば、働いているカレシのヒモであり、私の見立てが正しければ今は専業主婦の見習いをしているはず。というか、そうでないと比較的ゆるやかに死ぬ。ヒキコモリという字からヒモという字を抜くとキコリになるけど、残念ながら私の名前は妃子だ。

 ニートと言っても、働いていないというわけじゃあ、ない。

 私は今、漫画を描いている。アパートの一室でがりがり原稿用紙に向かいつつ、気晴らしに飯食いに外に出ているということだ。これは漫画家という職業を目指す立派な就職活動だ。

 そう言ったら色んな人に怒られた。間違ったことを言っているつもりはない。努力のベクトルが違うだけで、私もまた輝かしい未来の為に努力しているのだ。

 と、いうのが大義名分。

 まあ、なんというか、単刀直入に言うと、何をすればいいのか分からない。

 大学生時代は就活をしていた。なんとか一社から内定をもらって無事卒業までこぎつけたけど、一年ほど働いてみて、ああ、私は働くということに対して何の喜びも持ってないんだなということが分かって、辞職した。

 それからは趣味だった漫画を描き続けてみたけど、何も変わらない。パソコンに映る画面が小難しい文書から小難しい絵に変わっただけだ。働くのが楽しくない、というわけではなかったのが分かった。

 ある意味では毎日に絶望していたんだ。

 毎日がだったんだ。

 会社員になって、社会貢献に精を出したというわけではない。

 ニートになって、絵が格段に上手くなったわけでもない。

 少なくとも、根幹にある私自身は、どこも変わってなどいなかった。

 積み重ねられるのは、無為に過ごしていく日々と、自分の年齢。この自堕落な生活を一生続けていく(続けられるとも限らない)と考えただけで、寒気が止まらなかった。

 だからといって、何をすればいいのか、私には分からない。

 いつか私にも、こんな小難しいことが分かる日が来るのだろうか。

 そんなことを思い浮かべて、私は金池の街を闊歩していた。

 そういえばさっき、街の中心部の方で小さな人だかりみたいなものができていたなあ。あれは一体、何だったんだろう。警察でも来てはいないかと、私は人だかりのできているビルを見つけ、野次馬精神たっぷりに近づいていく。

 人だかりはなくなっているどころか、さっきよりも多くなっている。誰か有名な人が来ているのだろうか。それだったらサインの一つでももらえるかな。

 楽観的に考えていた私の頭に、その情報は突然飛び込んできた。

「屋上に、人がいる!」

 背後に立っている人が、そう叫んだ。

 どこの屋上に誰が立っているのか。私は目が覚めた思いになって、空を見上げた。

 角砂糖に蟻が群ぐように人がひしめいている、ビルの上のほう。

 屋上に―人が立っている。今にも飛び降りそうな状態で、屋上の柵にもたれかかっている。それを見上げる人々はどうしようどうしようと慌てふためき騒いでいる。

 嫌な予感が、脳裏をよぎった。

「飛び降り自殺――!」

 その人の足がビルから離れると同時に、私は反射的に駆け出した。

 走りながら考えた。

 私は何で走っているのか? 決まっている。あそこから飛び降りている人を救うためだ。待て、そんなことが私にできるのか?いや、助けなきゃいけないんだ。助けなければならないんだ。だって――――


「命をそまt「命を粗末にするなあぁーっ!」


 途端、私の小さな叫びは、後ろから聞こえてきた大きな主張に上書きされた。

 肩をすくめる私の横を、古びた革ジャンを着た男が走り抜けていく。ヒキコモリの私と違って、男の足はするすると人込みの中を縫っていった。どうしてこんな人込みの中を容易に走って行けるのか。余程、何かを追ったり、何かから逃げるのに慣れているに違いない。

 いつの間にか私は足を止めて、目の前の光景だけに意識を向け始めた。

 交通事故に遭った時に感じるというスローモーな世界と言うのは、こういうのを言うんだろうか。視界が揺らいで、モノクロトーキーのように世界がコマ送りになる。飛び降りて、頭から地面に垂直落下していく人の姿。よろけて地面に倒れそうになる私。ドーナツ型の人込みに投下される人体。私に肩をぶつけて、警官姿の、誰かもわからない男がまた一人、人込みの中へ。

 直後。

 肉塊を思い切り壁にぶつけたのに近い、鈍い音が金池の町に響いた。

 どよめきが起こる。緊張と叫びと悲鳴とで満たされていた野次馬が、一斉に思い思いの言葉を連ね始める。私の見えないところで、何かが起こったみたいだ。

 あの音は何だったんだ。

 何が――いや、誰が何に、ぶつかった音なんだ。

 貧弱な腕で人込みを掻き分けていくと、少し開けた場所に出た。アスファルトの地面が、十人十色の靴で縁どられている。

 私は目を見開いて、立ち尽くした。

 私の横を駆け抜けていった男が、寝っ転がって女の人を抱きかかえていた。

 血が滲みはじめていた。

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