五 闇が訪れてくるまでに⑤
ゆっくりと昼過ぎに起きて、僕は寝ぼけ眼を擦りながら屋上に向かっていた。
不思議と、気分は晴れやかだった。
昨夜の一件で心のどこかに居座っていた黒い影が消えてしまったような、そんな感覚だった。
今日なら、今までにないくらい良い出来の絵を描けるかもしれない。そう考えた僕は、居ても立ってもいられなくなって、昼ごはんを早々に済ませてスケッチブックと色鉛筆携え、屋上へのエレベーターに乗り込んだ。
もしこれから由紀姉ちゃんがお見舞いに来たら、きちんと謝って、話を聞いたことも言ってしまおう。
そして、二人でこれからのことについてしっかりと話したうえで、闘病生活を続けていこう。今日は仕事が終わってから来ると聞いていたので、それまで屋上で絵を描いていることにした。
昨日、何となく今まで描いた絵を見返していたけど、どの絵もどこか暗く陰鬱なものがあった。やはり、何を考えていてもどこかネガティブなところがあったんだろう。知らず知らずのうちに黒を多用している節があった。
こうして、過去の自分を客観的に見られているだけでも、僕は変化できている気がする。
後ろを振り返るのはあまり好きなことじゃないけど、今ばかりは大事なことだと思えた。
明日の僕を、変えていくためにも。
そんなことを考えながら、屋上の扉を開けた。
【六月十日】
いつも通りの風が吹いている。
いつも通りのコンクリートの床、いつも通りの鉄柵が見える。初めて見た時は新鮮だった風景も、今では見慣れたものになってしまった。でも、空は違う。晴れだったり、曇りだったり、雨だったり。鳥が飛んでいたり、ひこうき雲が走っていたり、空は毎日、その姿を変える。僕はそれを心待ちにしていた。
だけど今日は、いつも通りではない風景が、そこにはあった。
「あれ? 誰かが立っ、てる……?」
見た瞬間、背筋を怖気が走った。
病院の屋上からほど近い、隣のビルの屋上。
そこに、スーツ姿の誰かが立っている。風に、その長い髪を揺らしながら。
状況が尋常でないことは、すぐに分かった。
その立っている場所が、屋上を囲む鉄柵の外側、だったからだ。
どうしてそんなところに立っているのか。その理由は、考えるまでもなかった。
(飛び降り自殺――!)
全身から汗が吹き出し、心臓が早鐘を打った。
僕はあわてて屋上の端まで車椅子を走らせ、鉄柵越しに、飛び降りようとしているその人を見た。
そして、引きとめるために口元まで上らせていた言葉を、口に出せずに、目を見開いた。
見覚えがあった。今まさにビルから飛び降りて、自殺しようとしている人に。
いや――見覚えがある、なんて問題ではなかった。
「由紀姉……ちゃん?」
由紀姉ちゃんが、屋上に立っていた。
鉄柵を越え、今にも飛び降りそうな状態で、柵に寄りかかっていた。
「由紀姉ちゃん!」
僕は出来うる限りの大声で叫んだ。
しかし、姉ちゃんはこちらを振り向くことなく、呆然と足元だけを見ていた。
口元が少し笑っているような気もした。
「姉ちゃん!」
いくら呼びかけても、
近くまで走り寄っても、
姉ちゃんは足元の―数十メートル先の地面だけを、見ていた。
そして――――
姉ちゃんの身体がゆっくりと傾き、ビルの屋上から真っ逆さまに落下した。
「姉ちゃあああああああああん!」
▽
屋上からの風景は壮観だった。
車も人も、小さな蟻のように見えた。みな、汗水流して、弊社のために、お客様のために働いている。四十余年の時間を、誰かのために潰している。辞めたい死にたいと、何度も考えながら。その中でも私は、生きる価値をなくした、どうしようもない元働き蟻だ。
職を失った。
新入社員の中でも失敗の多かった私は目くじらを立てられ、大量首切りの餌食になった。
弟が生きていくための、お金のあては尽きてしまった。智志に心配は掛けたくなかった。できるなら自分の手で、圭太を救ってあげたかった。だけど仕事を首になってしまっては、どうしようもない。私は一人、咽び泣いた。
そんな時見つけたのは、箪笥の奥に仕舞われた生命保険の用紙だった。
私の名前が、書かれていた。天にも昇る気持ちになった。私が死ねば、それが自殺であろうと圭太に保険金が支払われるのだ。なんでこんな制度に今まで気がつかなかったんだろう。
そうすれば、圭太をここまで苦しめることはなかったのに。
圭太があんなに怒るまで、ストレスを溜めさせなくて済んだかもしれないのに。
私は馬鹿だ。大馬鹿だ。弟に多大な迷惑をかけてしまった。
今際の際、弟が病院の屋上から、私のことを呼んでいた。
ありがとう。最期の時まで駆けつけてくれて。嬉しいよ。
圭太、圭太。私の大好きな、圭太。
もう大丈夫だよ。今、自由にしてあげるからね。
私はひとつ深呼吸すると、全身の力を抜いて、前に倒れこんだ。
風が優しく私を包んでいって、私の身体はすうっと、人だかりの中に飛び込むようにして落ちて行く――――。
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彼はささやく。
「そうして、全ての『時』は交わるのです」
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