五 闇が訪れてくるまでに④

 姉ちゃんは恐らく、働いて得た給料を僕の入院費につぎ込んでいるのだろう。

 それなら僕が死んでしまえば、悲しむかもしれないけど姉ちゃんの負担は軽くなる。姉ちゃんはひどく塞ぎこむかもしれないけど、それで少しでも変化が訪れるのなら、延命作業みたいな変わり映えしない、それこそ窓から見える風景よりこうして屋上から見える風景のような、変化のあるほうがいいかもしれない。

「僕が死ぬことで、何か変化が生まれるほうがいいんだ」

 空を見上げて呟いた、そのときだった。

「貴方の考え方が間違っていると、大口で否定するつもりはありません」

 突然聞こえたその声。僕は慌てて周りを見渡してみたけど、闇に包まれているせいでその声の主を見つけることはできなかった。

「もう夜になりますが、どうも! また雨が降りそうなので、屋内に戻ったほうが良いですよ。このまま外にいてベンチに座り込んでいたり、女の子を連れて走ったりすると、間違いなく風邪を引いてしまいます。そんなことを言っているうちに僕も……おお、ハックション」

「一体、誰ですか? なんで、こんなところにいるんですか? 僕に何か用でも?」

「積もる話はあるでしょう。でもお答えはできません。貴方が解決すべき問題はそんなことではないからです」

 その、どこかひょうひょうとした声の主は、饒舌に言った。

「貴方は、命を絶つことで延命というメビウスの輪を解き、日常に変化を持たせると言いましたね。しかしそれで本当に変化が生まれるでしょうか。生まれたとしてもそれは良い変化でしょうか、悪い変化でしょうか」

「えっと、両方……じゃないのかな。僕が死ぬのは悪い変化だろうけど、姉ちゃんの負担が減るのは良い変化だ」

 男の笑う声が聞こえる。

「確かに貴方視点ではそうです。ではそれをあなたのお姉さん、由紀さんの視点で考えるとどうでしょうか。

 由紀さんは貴方の治療を続けてもらうために今日まで働いてきました。生きがいのようなものです。しかし貴方が死んでしまえば治療費を払う必要はなくなる。そこで、やったーもう治療費を払わなくていいんだ自由だー、という気持ちになるでしょうか?

 いいえ、なれるわけがありません」

 僕は二の句が告げなかった。

 なぜこの人が姉ちゃんの名前を知っているかなんて、尋ねる気にもなれなかった。

「貴方は生きなくてはならないのです。おこがましいようですが、貴方が死んだところで良い変化は起こりません。それは誰にとってもそうです。死とは悲しいものです。良い変化を生む場合もありますが、多くが悲しみ、憎悪、絶望……悪い変化を生んでしまいます」

 声の主―少し声の高い男は、咳払いして続ける。

「しかしそれでも、この世には死を選ぶ人がいます。多くの場合は他人のことを顧みず、己の欲求のままに死んでいます。死して周りに迷惑をかけようがかけまいが構わないという人々ですね。悲しいことですが、かなりの数を占めています。そして―それとは正反対の人々もいます」

「正反対の、人々?」

「ええ」

 男はふふっと笑いながら。

「他人のことばかりを考えて、自分のことはおざなりになっている人々です。貴方のお姉さんのように無償の愛を提供する、現代では非常に稀有な存在。そんな人々は往々にして愛すべき人を助けるために――守るために死を選択します。僕はそれをとても尊く、美しい行為だと思います」

 確かに、由紀姉ちゃんは僕をいつも助けてくれていた。

 だけど。

「それが何か、関係しているんですか?」

「さあ。僕は貴方の道標とはなりますが、答えは提供しません。オードブルを差し出すことはできても、メインディッシュを提供するだなんて、そんな身の丈に合わないことはできません。答えを見つけ出すのは貴方自身です。それでは」

 男は一回だけ、靴の底か何かで足元を打ち鳴らして。

「どうか貴方に、素敵な『明日』が訪れますように」

 それきり、声は聞こえなくなった。

 しばらく狐につままれたように唖然としていたけど、暗闇に慣れた目で辺りを見渡しても、僕以外には誰もいなかった。

 小さな雨粒が、ひとつ、鼻の頭を打った。

「……幻聴?」

 にわかには信じられなかった。

 幻聴なんて、今まで経験したことも、話に聞いたこともない。だけど、状況的にそう思わざるを得ない。僕は納得がいかなかったけど、雨が降りそうだった、あと先生に見つかるのも嫌だったので、病室に戻ることにした。

 ぎい、と音を立てながら車椅子をこぐ。

 幻聴かどうかはわからないけど、つまり彼はこう言いたかったのだろう。

 由紀姉ちゃんは僕のために尽くしてくれている。

 だからその姉ちゃんを悲しませないためにも、僕は生き続けなければならない。

 考えてみれば、当たり前のことだ。どうして今まで、こんな簡単なことを考えつかなかったんだろう。いや、内心分かっていた。

 分からないふりをしていた。

 あの妙なメールに対して、『生きたい』と返信したことを思い出した。


 僕は、生きたい。

 生きて、僕を今まで助けてくれた由紀姉ちゃんに、恩返しをしたい。


 改めて、そう決意した。

 雨の降りしきる、暑い暑い夜のことだった。

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