五 闇が訪れてくるまでに③
その日も僕は絵を描くために、屋上へやって来ていた。
今日はなんだか調子が良くて、いつもよりも大分速く描き上げることができた。相変わらずお世辞にも上手いとは言えないけど、描いているだけで楽しくなれたからそれでいい。
一人で絵を描くという行為はひどく孤独なものに思えるかもしれないけど、僕にとって絵とは自分の世界を、見聞を広めてくれる世の中との媒体のようなものだった。
ある絵の中にはアドバルーンが描かれている。街を歩く人はそれを見ているかもしれない。
ある絵の中には鳥の群れが描かれている。もしかしたら誰かがそれに餌付けをしたかもしれない。
街の中にある確かな変化は、僕のスケッチブックの中に息づいていた。
それだけでも、嬉しくてたまらなかった。
鼻歌を歌いたくなる思いになりながら、僕は病室に戻る。
自分の病室がある廊下に差し掛かるかというところで、僕は病室の前に誰かがいるのに気付いた。
医者の先生と、由紀姉ちゃんが話し込んでいるようだった。あの日以来、由紀姉ちゃんはめっきりお見舞いには来なくなった。僕は少し寂しい気分になったけど、その分姉ちゃんは仕事に専念できるんだと自分を説き伏せていた。
久しぶりに姉ちゃんが、お見舞いに来てくれたんだ。あの日のことをずっと謝りたいと思っていた僕は、先生と姉ちゃんが話し終わるのを見計らった。
そして、言葉が出なくなった。
「どうしても駄目ですか……先生」
「そうだねえ……。いくら由紀さんの頼みとあっても、これ以上はさすがに……」
医者の先生は、悩ましげに俯いていた。
「以前から言っていたことだけど、弟さんの病気を治すには莫大な治療費が要るんだ。しかもその先生は前払いしか受け付けていなくてね……。日本で治せる人はそのひとくらいのものだから、これ以上入院費さえ払うことができなければ、弟さんが治る見込みは限りなくゼロに近いんだよ。だから、半ば強制的に退院してもらうことにもなりかねない」
「お金があれば、大丈夫なんですか……?」
「それは保証するよ。私も昔、難病を患ってその先生に助けていただいたからね」
「分かりました。何とかして、お金は工面します。なので、よろしくお願いします」
話のすべては聞き取れなかったけど、余計な知識と教養がある所為で理解できた。
僕の治療にも入院費にも、とんでもない額の費用がかかり、姉ちゃんはたった一人でそれを工面してきた。だけどそれにも限界が来て、治療費を払えなければ僕は強制的に退院させられるということだった。
それがどういうことなのか、嫌でも分かった。
話を盗み聞きしていたのを悟られないように、僕は精一杯笑顔を取り繕って、病室に戻った。由紀姉ちゃんはもう帰ったあとだった。僕は先生にお願いして、しばらく病室に一人で絵を描きたいと言った。
窓の外から見える空は、一転、曇り模様になっていた。
僕は泣いた。
いろんな理由の混ざった涙を、流した。
ある日の夜、一人で考えた。
僕がこれ以上治療を受けられなくなると、病気が悪化して、死に至る。今はそうなってしまわないように、毎日の注射とか点滴で、それを先延ばしにしているんだと思う。三年間続いてきたことだ。これが治療だと思ったことはなかった。
治療というのはあくまで病気を治す行為だ。
僕に施されているこれは、あくまで「延命作業」に過ぎない。
僕はこれからも、その延命作業をいつまでも、続けていくのだろうか。そう考えると、由紀姉ちゃんにお世辞を言われた時と同じような、不快な気分になった。
自然論みたいな、そんな論文を雑誌で読んだことがある。
人が病気にかかって死んでいくのもまた自然の摂理の一つであり、食物連鎖を構成する上ではそれを阻害することを許されない、と書いていた。
動物だって傷を癒やす術は持っているだろうけど、病気を治す手段は持ち合わせていないだろう。例外はいるかもしれないけど、多くの生き物はきっとそうだ。おそらくそれは自然の中で生きる掟であり、病気が蔓延するということは、すなわち種の絶滅を意味するんだと思う。
そして、人間という生き物はそれに真っ向から逆らう、唯一の生き物。
このままだと死んでしまうかもしれない。
そこで死を受け入れていこうとするのは、動物の本能。
そこで死を迎え入れず延命していくのは、人間の本能。
僕が陥っている状況はまさに後者のそれだ。
僕はそれをひどく嫌った。死を受け入れないというのは、逆説的に生きているということを否定しているような気がして、嫌な気持ちになった。死はどんな生き物にも平等に与えられるのだから、平等に受け入れるべきだ。人間だけがそれに抗おうとするのは、どこかおかしい。
だからといって、病気の人がみんな死を受け入れろとは言わない。
現実問題、僕も死という現実を目の当たりにしてからというものの、震えが止まらない。
最近、点滴や注射の回数が減ってきたのも、今まで禁じられていた屋上に出してくれるようになったのも、何か理由があっての行為のように思えてきた。
少し前まではそれも「病状が良くなってきたからかもしれない」と明るく考えられていただろうけど、今はその反対としか思うことしかできなくなっていた。
約束を破って、こっそり夜の屋上へ行く。
黒の絵の具で塗りつぶしたように暗い。さっきまで雨が降っていたようで、空気がとても湿って、澄んでいた。空の星が見えない代わりに、眼下では色とりどりの明かりが輝いている。少し遠くに見える赤い光の群れは、屋台横丁のものかもしれない。
何の気なしに車椅子をこぎ、屋上の端までやってきた。
そこで、一つの考えが過る。
――――このまま飛び降りて死んでしまえば、僕も由紀姉ちゃんも救われるかもしれない。
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