五 闇が訪れてくるまでに②
それからは毎日のように絵を描くようになった。
姉ちゃんには申し訳ないと思ったけどごはんもすぐに食べるようにして、できるだけすべての時間を、絵を描くことに費やした。朝は早くに起きてすぐに鉛筆を手にとった。夜は眠気が運ばれてくるまでひたすらスケッチブックに描き込んだ。一時期は食事も摂らずに描いていたけど、そのことで少し先生に咎められて反省した。でも気づいたら箸を茶碗の上に置いて、スケッチブックに向かってしまうことが多々あった。
絵はひどい出来だった。ろくに練習などしてこなかったので、模写なんて到底できなかった。何日もかけて、得体のしれない物体が並ぶ紙を次々と生み出していった。姉ちゃんはよく描けていると言ってくれたけど、それがお世辞であるということは自分自身が一番良く分かっていたので度々反発するようになった。
姉ちゃんは、僕がへこんだりしないように優しい言葉をかけることが多かった。幼い頃はそうでもなかった気がするのだけど、ある日を境にそうなった。
今は、どこか遠くへ行ってしまったという一番上の姉ちゃんに変わって僕の面倒を見ているから、自責の念があるんだと考えていた。そういう考えが、僕は嫌いだった。
由紀姉ちゃんの、唯一嫌いな点だった。
甘やかしすぎるのだ。たったひとりの家族だからといって、僕に対して甘すぎる。友達と喧嘩をして僕が明らかに悪かった時でも、姉ちゃんが僕を叱責することはなかった。何かと理由をつけて僕に非がないことを教えられてきたけど、僕はそれが欺瞞だと気付くまでに成長してしまった。長く入院して色んな雑誌を読んだおかげで、そこらの中学生より知識や教養があるとは思っていた。姉ちゃんはそれに気づいていないのだ。
だから僕が下手くそな絵を描いても、上手い上手いとお世辞を吐く。
今日だって、そうだ。見舞いに来てくれた時、僕は相変わらず模写を続けていた。
絵の出来は変わり映えしなかった。それでも姉ちゃんは、こう言ったのだ。
「段々、上手くなってるね。この調子だよ」
僕はその言葉を聞いた瞬間、全身の血液が頭に集まってくるような、奇妙な感覚を覚えた。
途端、僕は無意識に姉ちゃんに向かって色鉛筆を投げつけ、大声で叫んだ。
……なんでそんな言葉をかけるんだ。上手くなってないのは自分で分かってるんだ。嘘なんてつかなくていいんだ。嘘をつく姉ちゃんは嫌いだ。帰ってくれ。顔も見たくない。もう見舞いにも来なくていい。僕のことは放っておいてくれ。
それ以外にもたくさんの罵声を浴びせた気がする。
消し去りたかった記憶のようで、詳しくは覚えていない。駆けつけた看護師に宥められても、僕は言葉を吐くのを辞めなかったという。由紀姉ちゃんは何度も、ごめんねごめんねと謝りながら、病室を出て行った。
そして今になって、それを思い返して、僕は少しばつの悪い気分になって、窓の外を眺めた。
ぱっと見では、何を描いたのか分からないスケッチブックが視界の隅に落ちている。
これ以上、あの絵の模写を続けるのは難しいと僕は思った。もう絵を描くことには慣れてきたから、模写じゃなくて、違う何かを描こう。
そう考えていた時、病室に医者の先生がやって来て、こう言った。
「気分が晴れないなら、屋上で絵を描いたら、どうだい?」
結果から言うと、先生の提案は大成功だった。
僕はこの日から、時間は限定されながらも車椅子に乗って一人で屋上に行くことを許された。僕の病室が屋上のすぐ近くだから、行き来が一人でもできたからというのもある。
まず、それだけでも筆舌に尽くしがたい物があった。
狭い病室から外の空間に出ることができたというだけでも沈んでいた心が晴れ晴れしたし、何と言ってもしばらく目の当たりにしていなかった大空が、一番の喜びだった。
ところどころに雲を散りばめながら、青い空が頭上に広がっている。
病院の屋上は隣のビルよりも少しだけ高く、この街でも有数の高層建造物だったので、街を一望することもできる。さすがに夜間は屋上には出られなかったけど、もしも来れたなら最高の夜景が見られるだろうと思っていた。だけど、見られなくても十分だ。
こうして青空の下で過ごしているだけで、たまらなく幸せだったから。
同時に、僕の描きたいものは決まった。
「青空と、この街の風景を描こう」
金池町は近年、地方都市化というものが進んで、どんどんビルが立ったり田んぼがなくなっているらしい。そんな街の風景を忘れてしまわないように、大好きなこの街の風景を失くさないように、すべてこの一冊のスケッチブックに閉じ込めてしまおう。
僕は固く決心し、心躍る気分で色鉛筆を手に取った。
その日初めて描き上げた絵は、今まで描いてきたどの絵よりも。
ずっとずっと強く、僕の心に焼きつけられた。
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