四 戦い抜くための作法③

 あの日と同じくらい強い雨が、ざあざあと降っている。

 墓地を後にして、俺はまた都市部へと戻っていた。突然の雨を予想できていなかったのだろう、サラリーマンの男性は鞄を傘に走り、自転車にのる人はかっぱを着て先を急いでいる。

 俺は傘を差しながら、取り残されたようにゆっくりと歩いていた。

 その後、警察が来て、俺は事情聴取を受けた。まだ中学生であったこともあったのか、俺は自分が殺したという主張を繰り返したが受け入れられず、最終的には名前だけの保護観察処分となった。残された二人は、由美子が死んだことにより両親不在であったことが明るみになって、生活保護が受けられることになった。しばらくの間は、近所の人が面倒を見てくれることにもなった。

 それが、由美子の望んだ結果だったかは分からない。

 由美子の死によって、悲しみに暮れた人は決して少なくない。

 由美子の骨しか入っていない小さな墓が作られるまでは、由美子が死んだという実感さえなかった。由美子の名前が刻まれた墓石を見た瞬間、ああ、由美子は死んだ、いや俺が殺したも同然だと、俺は胸にぽっかりと穴が開いた気持ちになった。

 死ぬ直前、由美子の手は震えていた。

 きっと、死んでしまうのが怖かったんだと思う。だから由美子は、俺に対して自分を殺してと頼むことで、少しでもその恐怖を受け入れようとした。

 治療を重ねていくうちに、そう考えていくようになった。

 先生に何度も言われたことだ。

『彼女に言われていたんだろう。自分のことは最後に考えるんだって。だから彼女はそれに則って、自分の命を最期に回すことで、自分の愛する人を守った。君は彼女を殺したわけじゃない。彼女の行動の手助けをしただけだ。気に病むことはない。何よりも、君だって彼女に守られたひとりだ。そんな君が深く閉じこもってしまったら、彼女はどう思うだろう?』

 そこで俺は、自分に残された使命に気付いた。

 俺のやるべきことは、彼女の死を悔やんで、贖罪に苛まされながら生きることじゃない。

 彼女の分まで、力強く生きていく事こそが、俺に託された由美子の最後の願いだ。

 だからこそ、彼女のような人間を、二度と出してはいけない。理由があるとはいえ、自分の愛すべき人を捨てて去っていく人間を、これ以上増やしてはいけない。

 それを取り締まる人間に、俺はなりたい。

 俺はこうして、警察官を志すことを決めた。

 雨が降り続く。アパートに帰り着くまで止みそうにない。

「大丈夫だ由美子。俺はもう、過去を振り返って悔やむことはしない」

 走り去る人々とすれ違いながら、俺は空に向かって呟いた。

 不思議と雨足が遠のいていくような、そんな気がした。

 梅雨という季節は嫌いだ。

 正確には雨が嫌いだった。あの日のことを思い出してしまうから。

 でも、今日改めて彼女の墓までやって来て、俺は決別した。

 雨が嫌いなのは、この雨がきっと、由美子の涙だからだ。俺がいつまでも過去を引きずって生きているから、由美子は悲しんで涙を流す。

 由美子が悲しむのが嫌だから、俺は自然と雨を嫌う。

 俺は過去を全て受け入れて、前を向いて生きていかないといけない。

 こうも言っていたよな、由美子。

「君の生きている今日は、昨日死んだ人が願った明日だって」

 由美子は自分の命を賭してまで、愛する人が明日を生きることを願った。かつては自分の命を落として、由美子と同じ歳のまま全て終えたかった俺だったけど、今は違う。

 俺は人のために、生きていく。

 生まれ育ったこの金池で、同じ過ちを二度と繰り返さないように。



       ○


 金池の警察官としての日々は、それはそれは順調なものだった。

 大きな事件も起こらず、上司も同僚も皆優しい人ばかり。かつて住んでいた町ということもあって、俺を覚えてくれている人なんかもいたりした。その誰もが昔よりしわが増えていたり、子どもをつれていたりして、俺もやっぱり歳を重ねたんだなと多少なりとも実感した。昔良く遊んでいた公園がなくなってレジャー施設になっているのを見て、悲しい気分にもなった。

 それでも形を変えずに残っていたのは、電車の中でも見た屋台横丁だ。

 金池に戻って二ヶ月ほど経ったある日の夜、俺は記憶を頼りに屋台横丁の入口までやって来た。大方、色んな複合施設の登場によって、屋台も廃れているだろうなと考えながら、屋台横丁に足を踏み入れた。

 思わず、声が漏れてしまった。

「変わって……ない」

 何にも、変わってなどいない。

 一歩踏み込めば一斉に漂ってくる、焼きそばやら綿あめやらのにおいが混ざった、ちょっと変な匂い。赤ちょうちんをぶら下げた居酒屋台の群れ。お祭りの縁日のように、日常的に金魚すくいやヨーヨー釣り、的当てなどの屋台が広がる風景。その昔由美子と怖がりながら進んだ手作り感に満ち溢れたお化け屋敷。親友のヒロトと花火で遊び散らかして怒られた、横丁の隅にあるひっそりと苔むした寺社の階段。ひぐらしの声を聞きながら、下駄を鳴らして歩いた、日曜日。

 ああ、何も、変わってない。

 悲しみとは違う涙で、少しだけ目が潤んだ。

 屋台の数はむしろ、かつての記憶よりも多い気がした。

 何か催しでもあるのかと散策していると、ひとつの看板を見つけた。

『第一回金池屋台祭り 近日開催』

 ほう、と俺は思わず感心した。

 金池の屋台は、あまり街から関心を持たれていない存在だった記憶がある。だがこれほど都市化しても根ざしているところを見て、金池のお偉い方も納得したんだろう。確かにこの屋台横丁があれば、金池は更に活性化するに違いない。

 毎日のように開いている屋台を目的に、観光客も増えるかもしれない。

 祭りの日程はまだ少し先にも関わらず、屋台横丁は人で溢れ、賑わっている。俺は嬉しくなって、自然と足取りが軽くなった。

 せっかくだから、今日は少し飲んでいくか。

 俺は適当な屋台を選び、暖簾をくぐった。

「おやじ、熱燗を一つと、何かおすすめのつまみをくれ」

「あいよ。お客さん、あまり見ない顔だね」

「まあ、そうだろうな」

 俺は空席に荷物を置きながら答えた。

「ついこの間、この街に戻ってきたばかりなんだ」

「へえ、外に出ていたのかい」

「世を取り締まる生業の公務員でね。転属って奴で、生まれ育った街に舞い戻ってきたんだ」

「おう、そりゃあ良いことだ。この街はとても、いいところだからねえ」

「おやじも、ここの出身なのかい?」

 俺は差し出された焼き鳥を頬張りながら尋ねた。

「私は、この街に惹かれて住むことにした者の一人だよ」

 おやじは愛想の良い笑顔を浮かべて、煙で丸眼鏡を曇らせる。

「昼間はカフェを経営して、夜はこうして屋台をしているんだ。充実した人生だよ」

「ふーん、商売が好きなんだな」

「商売というより、いろんな人と話ができるのが生きがいだね。あんた、歳はいくつだい?」

「ん? 二五、六ってところだ」

「おお、そうなのか。そりゃ良かった。実はもうすぐ常連が来るんだが、彼も君と同じくらいの歳なんだ」

「へえ……」

 熱燗を飲み下しながら、俺は半分聞き流し始めていた。酒は好きだが、どうにも弱いのだ。

 その時、俺以外の誰かが屋台の暖簾を揺らした。

「おやじ、熱燗と鶏皮ね」

 その男は入ってくるなり、慣れた口調で注文した。おやじの方もそれを知っていたようで、即座に熱燗を差し出した。それがよほど面白かったのか、男はくっくっと笑った。

 俺はその時、少しだけ良いが醒めた。声に、聞き覚えがあったのだ。

「お前……まさか、ヒロトか?」

 俺がそう呼ぶと、男は驚いた目をしてこっちを向いた。

 訝った表情をしているが、若干くたびれた二重の両目と、特徴的なそばかす。

「……もしかして、雅親?」

 その言葉を聞いて、俺の考えは確信へと変わった。

「ああ! そうだ、雅親だ覚えてるか!」

「うおう、なんて偶然だよ」

 俺は興奮気味に、ヒロトと肩を組んだ。ヒロトは中学校の時に、互いに夢を誓い合った親友だ。まさか、こんなところで再会できるなんて、夢にも思わなかった。

「驚いたぜ、雅親がこの街にいるなんてな」

「最近異動になったばっかりなんだよ。まあ、とりあえず飲もうぜ」

 興奮冷めやらぬまま、俺はビールを追加注文した。

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