四 戦い抜くための作法②
由美子の家には、親がいなかった。早くに事故で他界したそうだ。
長女の由美子と、ちょっと歳の離れた次女と、もっと歳が離れた弟が一人。三人暮らしだった。しばらくは親の貯金で暮らしていたそうだったが、当然そんな日々を続けられるわけがなかった。俺がそれにもっと早く気づくべきだったんだ。
学校の給食費も払えなくなり、崖っぷちに追いやられていた由美子の家。
当時その事実を理解していた由美子でさえも、まだ中学生だ。働き口などなければ、支援してくれる人もいなかった。周りに相談するということもできなかったんだろう。由美子は両親がいるという体を崩さずに、明るく振舞っていた。家にあった、親が残したものを売るなどして、食いつないでいたと聞いた。
そしてとうとう、売れるものもなくなってしまった。由美子は一人で懊悩していた。なぜ俺はそれを汲み取ってやれなかったのか、今でも後悔の念が強く残る。
もしも俺が、何か助けになれていたら。
助けになれなくても、周囲に助けを求めたりできていたら。
由美子は命を落とさずに済んだかもしれない。
――違う。
由美子は殺されずに済んだかもしれない。
俺が精神的に病み、病院に通い詰めるまでになった理由。
自分にかけられた生命保険の存在を知った由美子が、俺にかけた言葉。
「まーくん。私を――――殺して?」
同じように雨が打ちつけていた、中学三年生の時の六月十日。
由美子は、俺の手によって電車の走る線路に押し出され、轟音とともに壊れた。
由美子と俺は、小学校を卒業してから付き合い始めた。
俺は中学に入ってから、お前はリーダーシップに満ちていてみんなを引っ張っていく存在と慕われていたが、実際そんなことはなくて、多くは由美子に教えてもらったことばかりだった。
みんなに慕われる人になるには、人のために動くこと。
自分のことは最後に回して、影で動くこと。
どんな意見でも否定せずに受け入れたうえで、違う意見を提案してみること。
どれも、由美子に教えてもらって身に付けたことばかりだった。
由美子は俺が指揮を振るう傍らで支え続けてくれていた、唯一無二の存在だった。だから俺は由美子の指示には全て従った。俺は由美子がいなければ、風紀委員長などの仕事を全うできなかっただろう。
あの忌まわしい事件も、由美子が俺に指示したことによって勃発した。
『私を、殺して?』
由美子に呼び出されて、人の少ない踏切の前で電車を待ちながら、由美子はそう言った。
俺は初めて、由美子が抱えていた重荷の片鱗を見た。
育ててくれる親もおらず、妹と弟の世話をしながら学校に通っていた由美子。話を聞いた時、由美子がなぜここまで人を育てていく知識が豊富なのか、理解できた気がした。
当然、俺はまくし立てる勢いで非難した。涙が溢れ始めていた。保険があるからといって、死ぬことは正しい選択ではないと。生きて周囲に助けを求めれば、まだ道は開けるはずだと。
それでも、由美子は俺の手を握って、取り繕った笑顔で言った。
『ワタシヲ、コロシテ?』
由美子の瞳が、疲れきって、生気の抜けたものになっていることに、気づいた。
カンカンとけたたましい音を立てながら、遮断機が降りる。
早く、早く。
誰も見ていない。誰にも分からない。
まーくんが殺したことなんて、誰にも知られない。
だから、殺して。早く殺して。ワタシヲコロシテ、フタリヲタスケテ。
由美子の双眸が、滲みながら訴えかけていた。
手が震えていた。中学三年生の頭は混乱に満ちていた。
常識的に考えるのであれば、殺すことなんてできない。そんなことは誰も望んでいない。しかし、俺の敬愛する由美子はそれを望んでいる。由美子の言うことに従えば間違いは起こらない。だからと言って、由美子を殺すのは、電車の走る線路の中に押し出すのは、間違ったことではないというのか?
それは違う。
人を殺すのは間違ったことだ。
いくら由美子の言うことでも、それだけは聞けない相談だ。
頭のなかで、いろんな考えがせめぎ合った。どれも言葉にはなってくれず、雨の中で涙を流しながら、俺は歯の根が合わなくなるのを感じた。
それを見て、由美子は言った。
『大丈夫。すぐに終わるから』
由美子はきっと、俺が何と言おうと、死ぬつもりだったのだろう。握っていた俺の手を離すと、由美子は背後にあった線路へ、後ずさった。
声にならない叫びを上げたのを覚えている。
雨だか涙だかわからないほど、顔がびしょ濡れになったのを覚えている。
『さよなら、まーくん』
由美子ははち切れんばかりの笑顔とともに電車に飲み込まれ――その気高き生命を壊された。
急激に強くなった雨の中に、電車の甲高いブレーキ音が響き渡った。
血飛沫が飛んできた。
雨と伴して、俺の身体を濡らした。
言葉にならなかった。
由美子の血液で視界が真っ赤に染まって、そしてすぐ、世界が闇に落ちた。
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