四 戦い抜くための作法①

 電車の窓を、大雨が猛然と打ちつけていた。

 外の風景は煙を落としたように霞んでいて、雨粒も相まってよく見えない。春だというのに梅雨を間近に控えたような天候で、吊り革につかまって揺れる人、イヤホンを耳に着けている人、床に座り込んでいる人、誰もが不快に眉根を寄せている。

 俺もこの、雨ばっかりが続く梅雨という季節が嫌いだ。

 昔はそうでもなかったのだが、記憶というものは正直だ。

 電車の口が開き、客を吐き出して、また吸い込む。この辺りはまだ開発途中で田舎の風情が残っていて、それに伴って客足もそれほど多くはない。腰掛ける席は十分に空いていたが、俺は扉近くの手すりにもたれかかって、雨垂れの落ちる窓越しに、曇りがかった風景を眺める。

 民家や森林が続いていたもののなかに、段々と工場らしき建物、高層ビルが紛れ込んでくる。この辺で一番開発が進んでいるのが、金池町だ。

 昔は商業が盛んで特に屋台が活発なことから、屋台横丁とも呼ばれていた。もちろん、街のシンボルである屋台は今日も好評営業中なのだろう。電車が街の中心部に近づくと、それらしき明かりがぽつぽつと見えてくる。俺は郷愁の思いになって、少しだけ嬉しい気分にもなった。

 もう、十年ほど前だろうか。

 高校に進学するために、俺、中村雅親はこの街を出た。

 この街の高校に進学しても良かったかもしれないが、俺には警察官になるという夢があった。警察学校まではさすがにこんな地方都市にはなかったから、ならばと俺は高校生になった時点で外へ出る覚悟を決めた。それくらい自分を追い込まなければ、夢は達成できないと思ったからだ。

 俺は高校を無事に卒業し、警察学校を受験した。

 深く語る理由もないから、猛勉強の末に警察官になれたとだけ言っておこう。あまり過去を掘り返すものでもない。すぐにまた、過去と対峙することになるのだから。

 晴れて警察官になった俺は、しばらくは学校があった地域の署で勤務した。本当はすぐにでもこの街に戻ってきたかったが、くだらない矜持と受け入れ難い現実とがあって、俺は少しの間この街を忌避した。実家に帰ることもなかった。帰ろうものなら、俺のなかにいるもう一人の俺に、喉元を掻っ切られてしまいそうだった。それに親友も家を離れて一人で頑張っているのだ。俺一人がのこのこと帰るわけにはいかないだろう。

 警察官としての職務を果たしながら、俺は精神科に通いながらかつての記憶を徐々に克服していった。寝る前にいつも見えていた、びしょ濡れになったブラウス姿も見えなくなってきて、金池を受け入れるようにもなった。

 完全に克服できたかは分からない。

 分からないうちに俺は転属を命じられた。

 かねてより望んでいた、金池町での勤務だった。

 引っ越しの荷物も運び終え、最後の手荷物だけを持って、俺は電車に揺られていた。ベルが鳴り、扉が開く。金池の看板を確認して、俺は電車から吐き出される。

 この駅の乗車マナーは相変わらずひどい。まだ降車していない人がいるというのに、我先にと乗り込もうとする人が多い。こういったマナーを守らないのは、俺視点で言えば、若者より年配の人のほうが多い気がする。乗車中のマナーが悪いのが若者であれば、乗り降りのマナーが悪いのは年配の方々。そんなイメージが強かった。

 県内有数の地方都市とあって、構内はそれなりに人が多い。スマートフォンをいじりながらでも人とぶつかることがない――という現象は見られず、前を見て歩かなければすぐに正面衝突してしまいそうだ。キャリーバッグが、すれ違う人の足を踏まないように細心の注意を払いながら、ダンボールが積まれている自分の部屋――とは異なる方向へ足を進めた。

 駅を出て、ビルの群れをかいくぐっていくと、田園風景にも遭遇できる。青い田畑が一面に広がっていた。地方都市ならではといったところか。懐かしい故郷に思いを馳せる間もなく、俺は田畑の間にある、かろうじて敷かれたアスファルトの上を歩いて行く。このまま進んでいくと森林に入る直前で、この人工の道は途切れてしまう。その近辺に目的地はある。

 がらがらと音を立てながら、雨の降りしきる田畑の隘路を進んでいく。

 目的地が、段々とその姿を表す。

 雨降りで、はっきりとは見えないが、四角い石が立ち並んでいる光景。町のはずれに作られた共同墓地だ。近づけば分かるが手入れはほとんどされておらず、雑草は生え放題、木々は各々の思うがままに枝を伸ばしている。

 俺はキャリーバッグを持ち上げ、墓地に踏み入る。

 墓石の数は多くない。元々は個人の有志で作られたものだから、普通の人はきちんと拵えられた場所の墓地に墓標を築く。町のはずれは何かと便が悪く、嫌われがちというのもある。

 だからこそ、俺にとっては都合が良かった。

 雨が、その激しさをいっそう強めた気がした。

 右手で数えられるほどしかない数の墓石の前を通り過ぎ、あるひとつの前で立ち止まる。聞こえていた雨音が、少しだけ遠くなる。墓石はとても小さいが、その表面には震えた手で書いたような文字が、刻まれている。


『由美子之墓』


 少し前に、変なメールが届いた。

 差出人は不明。本分は空白。タイトル部分に、明日生まれ変われたらどうなりたいか、みたいなことが書かれていた。

 そのメールに対して、俺はこう返信した。


『彼女と同い年になりたい』


「……帰ってきたぞ、由美子」

 由美子。

 ある家の三人姉弟の長女であり、中学の頃から俺の彼女だった、由美子。

 高校受験前に命を落とした、由美子。

 

「ダメだ。思い出さないって、誓ったはずだ」

 いつの間にか傘を下ろしていて、雨で濡れていた髪の毛をくしゃくしゃと掻きむしる。小脇に抱えていた、水くたになった花束を、由美子の好きだったシロツメクサの花かんむりとともに墓石の前に置くと、しゃがみこんで目をつぶった。

 こうすれば、瞼の裏の世界で由美子と逢えるような気がした。

 無邪気で、天真爛漫で、いつも俺の前を走っていた、由美子に。

 いつの間にか後ろにいた事に気付けなかった、由美子に。

 夢はいつも残酷に醒める。

 俺は瞼を開いて、少しだけ微笑んだ。

 雨が降っていて、本当に良かった。

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