三 ほとんどの悪を吐き終えたら④
明くる日。
優子のもとにコンビニで買った弁当を持って行こうとしていたときだった。
「ん……?」
俺はいつもと違う家の前の雰囲気を見て、少し離れて足を止めた。
家の前で、見慣れない人間が数人集まって話している。全員が壮年の女性でいかにも近所のおばさんの井戸端会議といった感じだった。あらやだーとかうふふーとか笑いながら、大袈裟なリアクションとともに話に花を咲かせている
他の人がいるのでは、どうにも入るのが躊躇われる。今さらこんなことを気にしてもというところはあったが、やはり空き巣としての本能がはたらく。勝手口だけは開けておくように言っていたから、そっちからこっそり入って、弁当だけでも置いていって今日は帰ることにするか。
俺は気付かれないように家へ近づいた。ひそひそと話し声が聞こえてくる。別に聞かなくてもいいかとは思ったが、少し気になって耳を澄ます。
「優子ちゃん、いつからひとりぼっちになっていたのかしらねえ」
「さあ……。でも、もうすぐ叔父さんが迎えに来てくれるらしいじゃない?」
「みたいねえ。でも、大丈夫かしら」
少し驚いた。
どうやら優子が家に一人だということは、周囲に知れているらしい。いや、もしくはつい最近知られたんだろうか。ともかく、優子が一人である――ということは近所の人間の知るところになったのだ。俺はほっとため息を吐いた。近所の人が心配をしてくれているというのもあったが、一番安堵したのは、話題に出ていた、優子にはまだ引き取ってくれる身内がいるということだった。
前にも言ったが、俺と優子は似ている。
俺は実の親に捨てられ、マサチカの家に居候することになったが、せめて優子には、血のつながった人間が誰もいない――なんてことは避けて欲しかったのだ。DVを受ける子どもであっても、親のことは大切に思うのだという。子どもは親から受ける愛を本能的に信じているんだ。心が温まる思いになった。
同時に、少しだけ寂しくも思った。
「……俺の役目も、ここまでってことか」
勝手口へ向かおうとしていたが、踵を返し、家から離れる。
優子を引き取ってくれるという親族が名乗り出た以上、赤の他人である俺が関わる必要はどこにもない。関わったところで面倒ごとが増えるだけだ。だから、あとはその誰かに任せて、俺は元の生活に戻ればいい。もともと、空き巣である俺が優子の面倒を見ていたこと自体がおかしかったのだ。約束を守れなかった俺が正義ぶるなんて甚だ笑える。俺はふふっと声を漏らした。
弁当を置いてそそくさと帰ろうとしたとき、敷居の外でふと黒服姿の男と肩がぶつかりそうになって、とっさに避ける。
「おっと、すまんね」
「いえ、こちらこそ……」
俺は軽く会釈しながら、歩き去って行く男を見た。
恰幅のいい、腹の出た男だ。頭は小奇麗に丸められていて、スーツの下のワイシャツは第一ボタンが開けられている。周囲を見渡すに、音は近くに停めてある黒塗りの外車から降りてきたようだ。運転手らしき人間が車のそばでじっと立っていた。その足は、のっしのっしと優子のいる家のほうへと向かっていた。井戸端会議真っ最中のおばさまたちもそれに気づき、会釈を交わして、しばし談話しているように見える。
「……あれが、例の叔父さん?」
――なんだか、ヤクザみたいなやつだな。
俺は怪訝に首を傾げながら、逃げるようにその場を去った。
正確に言えば、去ろうとしていた。
後ろから、その声が聞こえてくるまでは。
「いやあ、良い世の中になったものだ」
声の主は、愉快そうに笑っている。聞こえないようにつぶやいているようだが、俺には聞こえた。さっきすれ違った男の声のようだった。
「まさか身内に親をなくしたガキがいるなんてな。叔父だってことを知れば、嘘だとは知らずにとんと擦り寄ってくるだろう。ガキを欲しがる輩なんてそこら中にいるから、こいつあ高く売れるぞ」
ふつふつと、血が上るのを感じていた。
「そうでなければ、ストレスが溜まった連中の捌け口にでもしてやろうか。たしかそいつはメスガキなんだったな。うちの底辺の野郎どもの世話役にでもなれば、捨て子風情にしては大出世だな。ハッハッハ――――」
考える前に、走りだしていた。
その瞬間のことは、今になってはよく覚えていない。
鮮明に覚えているのは。
「優子、俺と一緒に来い!」
返事を待たずに勝手口から優子を連れ出して、走り抜けていったこと。その後から、近所の人の叫び声と、男の怒号が聞こえてきたこと。パトカーのサイレンがけたたましく鳴りはじめたこと。優子を背負って無我夢中で走ったこと。
決意は揺らがなかった。だから足取りもしっかりしていたし、後ろを振り向くこともなかった。幸い空き巣稼業だったおかげで、人に見つからないように逃げるのには慣れていた。急に走りだしたせいで足が棒になりそうだ。ろくに運動もしてこなかったのが祟ったのか。追いかける声がやサイレンが聞こえなくなるのを確認しながら、俺はようやく大きな深呼吸をした。
「おじちゃん、どうしたの?」
「大丈夫だ。もう大丈夫だからな」
優子は何も知らないだろうに、元気よく、うんと返事をした。
街に陽が落ちる。
俺は優子の身体を背負ったまま、ビルの隙間で立ち尽くした。
◯
「ねえねえ、これからどこへ行くの? 楽しいところ?」
コンビニで金をおろしていた俺の横で、優子が不思議そうに聞いてきた。
俺は口元に人差し指を当てた。それを見ると優子も同じ動作を繰り返して、にっこりと笑った。好きなお菓子とアイスを買ってやると、優子は両手を振って喜んだ。
イートインに入ると、平日の昼間とあって、コンビニはサラリーマンやオフィスレディで混雑している。席はないかと探していたところ、二人分座っていたらしい会社員風貌の男性が席を譲ってくれたので、俺たちは会釈しながら腰を下ろした。
俺は買った新聞をめくる。
三面記事に、「親に捨てられた少女、何者かに誘拐される」と報道されていた。
俺の顔は割れていないようで、容疑者は一七〇センチ程度の男性としか書かれていない。まあ、黒ずくめにマスク着用で闖入したからバレなくて当然だ。これでバレたらむしろ褒めてやりたい。俺は警察の頼りなさに小さく笑った。
優子の写真もどこにもない。が、そのうち見つけて掲載されるだろうから、この街にも長居はできないだろう。
街の隅のコンビニで、俺はまたひとつ決意を固めた。
「優子、旅に出よう」
【六月十日】
「たび?」
優子は首を傾げた。
「おとうさんとおかあさんみたいに、旅行するってこと?」
俺はコーヒーを飲みながら頷く。
「ああ。これまで経験したことのない、とびっきり楽しいところに行こう。デパートでも遊園地でも、どこでもいい。好きなところに連れていってやろう」
できるだけ長く、優子には夢を見せてやりたい。もしも見つかったら、優子はあの叔父かも分からない輩に引き取られることになる。そうなるよりは、こうして優子の行きたい場所に連れて行ってあげるのがいいだろう。
この生活がどれだけ続けられるかはわからない。身元不詳の俺と優子じゃ、新しく部屋を借りて暮らすというのも難しいだろう。ネカフェなんて使えばそれこそ足がつく。限界は外屋内だろう。なら優子には最後まで夢を見せてやりたい。そして、どうしても逃げられなくなったら、そのときは――。
「楽しいところって、人がいっぱい、いるんだよね」
「いるだろうな。みんな楽しいところに行きたいから、たくさん人が集まる」
「それじゃ、あそこも楽しいところってことなの?」
優子が、窓の外を指さした。俺はその先を見やる。
コンビニの外、高層ビルの下に人だかりができている。誰か有名人でも来ているのだろうか。警察に見つかる心配はあるが、優子が気になるのなら仕方ない。
「何があるんだろうな。行ってみるか」
「うん!」
俺は立ち上がり、優子の手を引きながらコンビニを出た。
そして俺は―その人だかりがどこか異常であることと、それらが見上げているものに気付いた。
「おい……嘘だろ?」
ビルの屋上、柵を越えた狭いスペースに、スーツ姿の女性が立っていた。
見上げる野次馬は、悲鳴混じりに何と言っているか分からない声をかけ続けていた。
まさかそんなことを、と俺は述懐した。
心臓が早鐘を打つ。気付けば俺は、優子の手を離して駆け出していた。
そのまさかは、不意に訪れた。
女性の足が――――ビルから離れる。
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