三 ほとんどの悪を吐き終えたら②
少女は、名前を優子と言った。
優子の着ている水色のワンピースはしわだらけで、ケチャップらしき染みがところどころに付いている。まともに食事も取れていないんだろう。コンビニで買ったパンとジュースを与えたら、迷うことなく食べはじめた。疑うことを知らないのかもしれないが、知らない人から受け取った食べ物なんて、普通なら多少躊躇するはずだ。しかし不健康な顔色を見ると、「普通」なんて言葉を使ってはいけないように感じた。
年齢で言えば小学校三年生くらいになるのかもしれない。上背は低く、今こうして寝息を立てながら俺に預けている身体も、魂が抜けてしまったかのように軽い。天涯孤独でこうやって子どもを寝かしつけたことなんてない。子どもってのはここまで弱々しくものなんだろうか。それとも優子が特別小さいんだろうか。
リビングを見渡してみる。部屋の広さは八畳ほどだろうか。外からの見た目以上に家の中は新しい造りで、老朽化しているような節はない。この時代の一軒家としては上出来なレベルだろう。しかしあまりに埃っぽかったので、優子を埃を払ったソファの上に寝かせて、掃除を始はじめることにした。
どうも、こういう状況を見ると見捨てられない。隅々まで目を走らせてみると、テーブルの上とか、隣に見える台所の冷蔵庫付近とか、そういう小さい子どもでも日常的に使うような場所は大して汚れていなかったが、本棚の上とかその辺りは埃が堆く積もっていた。幸い電気や水道は通っているようだが、冷蔵庫は空っぽで、食べ物らしい食べ物は底をついていた。辛うじて缶詰などは残っていたが、手をつけた様子はない。子ども一人で缶切りを探して、缶の蓋を開ける――なんてことは困難だろう。
やはりそうだ。
この子は一人で、この家に住んでいる。
俺は黙々とはたきを振り続ける。
優子は見知らぬ俺が部屋にいるにもかかわらず、パンを食べ終わった後すぐに眠り込んだ。人の猜疑心なんかは、欲求には勝てないんだろうと思った。優子が名前も知らない――さっきまで偽物の配達員を名乗っていた俺をどう思っているかは知らないが、俺は少しだけ胸が苦しくなっていた。無意識に煙草を取り出そうとして、やめる。今は掃除中だ。これ以上、この家は汚せない。
俺は小さい頃に親を失くした。もしくは亡くした。
捨てられたのか、死んだのかは、結局明らかにならなかった。
報道なんてされなかった。されたかどうかも知らなかった。俺はただ、自分以外誰もいない空き家に帰り着いて、しばらくしてその事実を体感した。警察に連絡するなんて知恵もなかったので、胃の抗議にも意を介さず、じっと親が帰ってくるのを信じて耐えていた。日付けを跨いだ頃になっても、家には誰も帰ってこなかった。
そうやって、誰かが帰ってくるのを待って、孤独の夜を噛み潰す日々が続いた。
夜が更けて暗くなった家の中で蛍光灯を点け、器に持ったベチャベチャのごはんを食べていると、恐怖とかそんな感情よりも、寂しさとか愛情への飢えが勝って、耐え切れず、毎日泣き腫らしていたのを鮮明に覚えている。その時の光景を脳裏に描いただけで、少しだけ視界が潤んだ。
それが一ヶ月ほど続いたあと。
親に捨てられたらしいことが近所に広まりだした頃、昔からの付き合いだった幼なじみのマサチカの家に居候として住む形になった。
マサチカとその家族は、孤独になった俺を喜んで迎え入れてくれた。
俺は自分に祖父母がいるのを知っていたが、俺が一人になっても家に来るどころか連絡さえも寄越さない辺り、もう面倒を見てはくれないんだな――と幼心で察して、数年間住んだ家に別れを告げた。名残惜しさのかけらもなかった。
中学校くらいまでは何事もなく、人並みに勉強して、人並みに遊んで、人並みに暮らしていた。そして、いつしか血の繋がっていない家族とも別け隔てなく接することができるようになって、将来はいい仕事に就いて、ここまで育ててくれた家族に恩返しがしたい――と決意した。
中学三年生、卒業を間近に見据えたときのことだろうか。
学校から帰ろうとした時、マサチカは俺を河原に連れて行って、こう言った。
「俺には夢がある、博人」
博人、というのは俺の名前だ。
マサチカは正義感が強くて、明朗快活で、中学生とは思えないほど大人びた男子中学生だ。学校では風紀委員長を務め、周囲からの信頼も厚かった。そんなマサチカは、なにか相談事がある度にこうして俺を呼び出し、俺にだけ悩みを打ち明けていた。あれだけみんなに頼られているマサチカが俺に相談してくれるというのは嬉しいことではあった。この日も俺は、道すがら買ったコーラを飲みながら、生返事混じりでマサチカの話を聞いていた。
この日のマサチカは何かが違った。
マサチカの真剣な眼差しで、俺はようやくそれに気がついたのだった。
「俺は将来、警察官になって、博人を捨てて夜逃げしたやつ……いや、そうなのかはよく知らないけど――とにかく、誰かを悲しませたりするやつを徹底的に捕まえて、この国を平和にする。そう決めた。俺が決めたんだ」
俺はコーラを飲む手を止めた。マサチカはなおも続ける。
「お前は画家になりたいって言ってたな、博人。なら、ここからは別々の道だ。高校も別のところになった。俺は高校で猛勉強して、警察学校に行く。お前は高校で絵の勉強をして、美大に行く。やりたいことが決まっているなら、その気持ちが変わらないうちに挑戦した方がいい」
マサチカは座り込んでいる俺に、ぐっと拳を突き出した。
「約束だ。お互いが夢を叶えた時、またこうして二人で会おう」
マサチカは目を細めて笑った。
彼の笑みには不思議な説得力があった。こうしてマサチカが画家の夢を応援してくれるだけで、未来が明るく書き換えられていくような気分になった。俺はしばらくその拳をぼうっと眺めていたが、一つ深呼吸をした後に笑い返して、拳を突き出した。
「……ああ、約束だ。頑張れよ、マサチカ」
「おう、お前もな、博人」
夕陽の沈んでいく街の片隅で、一五歳の俺達は、たしかに誓い合ったのだ。
そんなことを、シンクに溜まった皿を洗いながら、思い返す。
もう十年余りが経ったんだと知って、なんだか恥ずかしい思いになった。
顛末を話そう。
高校生になった俺は、推薦で入った美術の専門高校に通い始めた。高校に入ってからはバイトと同時に一人暮らしをはじめ、数年間世話になったもう一つの実家に別れを告げた。マサチカも生まれ育った街を離れて高校に通うと決めたのだから、俺も同じ条件でなければ約束にならないと考えたからだ。
高校に入ってからは死に物狂いで絵の勉強に励み、結果って機になんとか現役で美大に入学することに成功した。今思えば、俺はこの時点である程度、満足してしまっていたのかもしれない。マサチカが警察学校に入学した――と親づてに聞いたのもこのときだった。
ところが、美大に入って俺の生き方は一変する。
端的に言えば、想像していた世界とはまるで違っていた。
俺は昔から、どんな作業もそつなくこなすことに定評があった。千羽鶴を地道に追ったり、卒業式に使う紙の花を黙々と作ったり、美術の彫刻で謎の傑作を生み出してしまったり。その忍耐力で、苦難と呼ばれる美大の講義も日々の積み重ねでなんとかこなせていた。画家になるにもこうした日々の鍛錬が大事だと考えて、講師の教えを的確に汲み取り、理想の画家像を築き上げていった。講師陣の期待にもある程度応えられるようになると、俺ならやれるんじゃないかと自信もつきはじめていた。
しかし、周囲の人間は俺のような生き物ではない。
むしろ俺とは反対ともいうべき存在で、講義には必要最低限しか参加せず、来ても寝てばかりで聞き入れる様子もない。暇な時間に絵を描いているような素振りも見せず、口を開けば酒や女の話ばかり。犯罪行為に手を染める輩なんかもいた。俺はどっちらけになって、孤独も厭わずひたすら絵だけを描き続けた。
ある日、美大学生の中から画家が一人誕生した。
展覧会に出した作品が評価され、雑誌や新聞にまで掲載される運びになったのだ。天才的な絵だ、百年に一人の逸材だ――とマスコミは持て囃し、若き画家は華々しいデビューを飾った。
俺は、そのニュースを自分の部屋で見つめながら、泣いていた。
画家としてデビューしたのは、ろくに講義にも参加していなかった学生だった。
俺は展覧会に出品することさえもできなかった。
そのとき、コメンテーターとして出演していた有名な作家が言ったことは、今でも反芻できるほど身に沁みている。
『小説もそうですけど、芸術っていうのはやっぱり才能ありきなんですよね。
素人が一朝一夕でできるようなことじゃない。確かに努力もある程度は必要だけど、努力だけで報われる世界ってのはやっぱり限界があるから、結局最後は才能の勝負になっちゃうんですよ。
芸術に勝ち負けもあったもんか――とよく大口で批判されますけど、勝って生き残れなければ干されてしまう世界ですからね、我々の業界は……』
俺は掃除を終えた後、玄関で帰り支度をしていた。
物を盗る気になんてなれない。第一、盗ってしまえば困るのは優子だ。
「おじちゃん、もう、帰っちゃうの?」
寝ぼけ眼をこする優子が玄関までやって来て、不安げな声で言った。
俺は呆けた顔のまま振り返り、優子の小さな肩に優しく両手を置いた。
「そうだな。今日はもう、帰る。……大丈夫だ。また、明日も来るから」
「明日も?」
「ああ」
「本当に、本当?」
「本当だ。約束する」
くしゃっと笑う優子の頭を撫でてから、俺は外に出た。
後ろを振り向きたい気持ちになりながら、煙草に火をつけて夜空に吹かす。
なんとまあ、皮肉なもんだ。約束を果たせなかった俺が、こうして約束だなんて言葉を自分から発するなんて。
くっくっと笑いながら、俺は愛すべきボロアパートへの帰路に着いた。
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