二 スウィート・ビターに祝福を①
『いいか竜馬。パティシエってのは、他人の幸せを祝福するのが仕事だ。それはパティシエに限ったことじゃない。男ってのはな――――』
明日生まれ変わるとしたら、どうなりたいか。
なにをどうしたい、誰とこうしたい、みたいなものはない。
俺が下した答えはひとつ。
すべてをやり直したい。
「それでは、新郎新婦の入場です!」
司会者の言葉を合図に、会場からは溢れんばかりの拍手が惜しみなく送られる。
その対象はもちろん、バージン・ロードをゆっくりと進んで行く新郎新婦。喜びのあまりに、涙を流して喜んでいる女性の両親。少し照れくさそうな顔をしながら、少しずつ新しい人生への道のりを歩む二人。止むことのない拍手。天にも昇る気持ち。至福の一時が、彼らの心を埋め尽くす。新郎新婦が席についたのか、次は媒酌人のスピーチが始まった。分からない人にはあまり分からないふたりの馴れ初めを、時折ジョークも交えながら重ねていく。来賓祝辞、乾杯と、式はどんどん進んで行き、
「続きましては皆さんお待ちかね、ウェディングケーキの――」
そこまで聞いて、俺は喜びの止まない会場を後にした。
式場の外扉に背中を預け、煙草に火をつける。空は六月にもかかわらず晴れ渡っている。まばらに浮かぶ雲に向かって、鼻腔にためた煙をふぅーっと吐き出す。温くなった空気の中に紫煙は溶けていって、そのまま空に昇って行った。煙草を持った右手を、だらん、と下げて、扉にタバコをぐりぐりと押し付ける。式の度に行う、皮肉を込めた慣習だ。
くずかごに吸殻を放り投げて、小雨の中をつかつかと歩き出す。
「仕事、戻るか」
俺は無造作の髪をぽりぽりと掻いて、いつもの道へ。
これでいい。
俺はただ、自分の仕事をきちんとこなせていればいい。
たとえそれが望んだ未来ではなかったとしても。
二時間かそこら金池町をうろついて、仕事場に戻った。
裏口から中に入ると、あっという間に甘酸っぱい柑橘類のような香りが嗅覚を刺激する。あまり覚えのない香りだ。このフレーバーは、ビターレモン?
「お。リューマくん、おかえり」
「……レモン系の新作でも作ってるんですか」
「さすが、よくわかったね。リューマくんにも味見してもらおうかな」
店長が差し出したのは、所々欠けている――恐らく何人かに味見してもらったんだろう――ほのかなレモン色のゼリーを乗せた、レアチーズケーキのようだった。チーズケーキといえばマーマレードが主流だけど、レモンを、しかもゼリーを乗せるとはなかなか凝っている。俺は味見用のスプーンで一口咀嚼した。
「さて、どうかな?」
どこか試すような笑顔で、店長が訊ねる。
「確かに組み合わせの斬新さはありますけど、味においては『新作!』と言って出すほどの真新しさはありませんね。うまくは言えませんが、見た目に反してほのかに口で解けるような甘さがあればいけると思います」
「ひい、毎度毎度辛口だねこりゃ」
店長がぴしゃりと額を叩く。そこまで批判したつもりはないんだけどな。あくまで自分の率直な意見を述べただけで、辛口だとは微塵にも思っていない。
「んじゃ、その辛口コメントに見合うだけの新作を、リューマくんにも作ってもらおうかな」
意地の悪そうな笑顔に切り替えて、店長が言う。言いたいことは分かっている。
「天才パティシエ、小泉竜馬君にね」
そら来た。
「……勘弁してください。俺、そういうのじゃないんで」
「何を言うかね! あの、かつて日本一とも言われた天才一流パティシエ、小泉正一の息子であるリューマ君なら、零細洋菓子店を流行りのキャンディハウスにするくらいお茶の子さいさいだろう」
「古臭い固定観念を持たれても、困ります」
「なはは、つれないねえ」
くすくすと店長は笑いながら、調理場のほうへと戻っていった。
休憩室のソファにどかりと座って、いつもよりも重いため息を吐く。店長――藤堂さんは言わずもがな、ここ「菓子屋グラッチェ」の店長。そして、俺はグラッチェの一従業員、小泉竜馬。趣味、というか人並みにできることにお菓子作りは含まれてくるけども、お菓子はそこまで好きじゃない。
ではなぜ、俺がグラッチェに勤めているのか。
理由は簡単。無職になったときに、気まぐれにやって来たお菓子屋に素性を語ったらスカウトされた。それだけのこと。
元々は、地元にいる母親の誕生日にケーキでも贈ろうと思って、グラッチェへと向かったはずだった。ところが、配送の準備までしてくれる心優しいグラッチェがあったばかりに、俺は親の名前を知られた。同時に、親が天才的なパティシエであることも従業員にバレて、今に至る。
スカウトと言っても、さすがにお菓子を作れるかどうかだけはテストされた。そのときはお菓子なんか作るのは初めてだったんだけど、料理なら手馴れていたから、お菓子の本を見ながらそれ通りに作っていったら、「これはすごい」「本当にお菓子を作ったことがないのか?」などと言われた。本の順序どおりに作ったから美味しくなるのは当たり前だと思ったんだが、そんな理屈はここの従業員には伝わらなかった。
『今日から君も、グラッチェの一員だ!』
結論から言えば、最初から入れる気満々だったんだと思う。たとえ下手くそであっても、「君にはあの伝説のパティシエの血が流れているから大丈夫だ」とか言うつもりだったんだろう。だったらそっちのほうが良かったかもしれない。
しかし俺はうまいことお菓子を作ってしまった。
それがいけなかった。
結果、俺はこうして店に来るたびに新作はないかと詰問のごとく訊ねられるようになり、そのたびに日夜、新作スイーツのアイデアを捻り出すことを迫られた。当時はまだ大学生だから良かったものの、これが例えば――
「……ああ、くそ」
忘れよう。そう決めたはずだ。
こうしてはいられない。不本意だけれども、新たなスイーツを考えなければいけない。そうでもしなければ、お菓子を作る以外に何も取り柄のない俺は産業廃棄物と化してしまう。ロッカーから作業着を取り出して、スタッフルームの扉を開ける。
「おっ、リューマじゃないか。シフトが合うのは久しぶりだな」
入った途端話しかけてきたのは、先輩である神谷さんだった。
「どうもです」
「なんだなんだ、暗いぞお前! もうちょっと元気出せよ!」
「ああ、すみません。だいたいこんな感じで」
背中をバンバンと叩かれる。学生時代野球部だったとか何とかで、神谷さんは力が強い。だからこうして背中を叩かれるだけでも、息が止まるくらい苦しかった。
「店長の新作ってもう食ったか?」
「ええ、まあ」
「どうよ」
俺は言いよどむ。正直に言っていいものか。
「なんとも言い難いですね。スタンダードでも奇抜でもない感じ。どちらかに振り切れていたほうが良いかなと感じました」
「ほほう。相変わらず毒舌だなあ。てなわけで、俺もちょっと新しいの作ってみたから、後で試食頼むぜ! お手柔らかにな」
「はい、俺でよければ……」
終始、能天気な笑顔を浮かべたまま、神谷さんはスタッフルームから出て行った。
これが菓子屋グラッチェの日常だ。店に来るたびに人の良い店長や先輩に絡まれて、その都度、新作新作と聞き慣れた言葉が鼓膜に刺さる。たしかに、お菓子屋にとって新作を絶えず考えることは死活問題なのかもしれないが、ここまで圧をかけて言われると息苦しくなる。背中の痛みとは別の苦しさ。
手早く作業着に着替えると、姿見で着衣に漏れがないかチェックする。
必然的に自分自身と目が合う。つんつんとした黒髪に、三白眼。自分で見ていて怖くなるくらいに愛想のない顔だ。笑顔なんて浮かべた日には、世界に終わりが訪れそうな気がする。試しに笑ってみる。……にちゃあ。ダメだ殺人犯だ。だから俺は滅多に笑うことなんてないし、笑おうとしない。
今、笑うだけの余裕もない。
鏡から目を離して、更衣室を出る。それとほぼ同時に、休憩室近くに置いてある電話のベルが鳴った。俺以外には誰もいないから、とりあえず受話器を取る。後で店長に内容を伝えればいいだろう。
「いつもお世話になっております、グラッチェです」
『こんにちは。お世話になります、成宮です』
胸の奥に、なにかの破片が突き刺さる。
「……ああ、はい、どうも」
『披露宴のウェディングケーキの件ですが、本当にご迷惑をおかけしました。おかげさまで、明日は良い式になりそうです!』
「そうですか。それはおめでとうございます」
「それについてご相談なのですが、ケーキを作った方とお会いできませんでしょうか? あまりにも素晴らしいケーキでしたので、直接会ってお礼を申し上げたくて」
俺はあくまで、マニュアル的に応じる。
「ありがとうございます。申し訳ございませんが、それは本人のプライバシーもあるかと思いますので、ご遠慮させていただきます」
『あ、そうなのですね……。すみません、わざわざありがとうございました!』
「はい、それでは失礼いたします」
俺は返事を待たずに受話器を置いた。無愛想だと思われたかもしれない。
受話器の隣に置いてある、ケーキの予約帳をめくる。
何ヶ月か前の、予約。
「成宮様 ウェディングケーキ」
成宮加奈子。
成宮加奈子はもうすぐ、いなくなる。
明日――――想いを寄せていた同級生が、結婚する。
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