一 隣にいるということ⑦
一人、金池の町を歩いている。
昨日の大雨とは打って変わって、雲一つない晴天が覗き見える。今年は夏が少し早番のようで、気温は八月中旬並みに高い。陽炎もちらほら漂っていた。駅周辺は企業の本社や支社が多く、高層ビルが群れを成して立ち並んでいる。昼前の時間帯は外回りの営業マンがそこかしこを走っていて、やっぱり日本人は働きすぎなんじゃないか――みたいなグローバルなぼやきも浮かんでくる。らしくない。
さて、本日のお仕事が十七時から二十二時の五時間である俺は、彼らに比べて勝ち組と言えるだろうか。
それとも。
答えは分からない。
だが、社会は俺を負け組だとみなした。
煙草に火をつける。昨日の雨で開けたばかりの煙草がお釈迦になってしまったので、今朝わざわざ買いに走った。やっぱりこの煙草を吸わないとすっきりしない。この甘ったるい煙草だけが、悪夢を忘れる潤滑剤になる。枕が違うとなかなか寝つけない人がいるように、煙草が違うと落ち着かないのだ。
紫煙は風を受けてたなびき、空に昇る。
由紀は結局、会社をクビになったのだろう。妙に正義感のあるやつだ、ちょっとおかしな方向に暴走して、一方的な罰を受けることだってある。朝起きて連絡してみたが、電源が入っていないのか、返事はない。会社に連絡する勇気はなかった。昨日家まで送った時、由紀の取り繕った笑顔が妙に不自然だったのが気がかりだった。由紀とは保育園から親ぐるみでの腐れ縁だが、ああいった表情は見たことがなかった。
……ああ、いや、一度だけある。
もう思い出さない。思い出したくないと決めたはずだった。
気になって部屋まで訪ねたが、出かけているのか由紀は留守だった。ますます胸が騒ぐ。ひょっとしたら町にいるかもしれない。町をうろついていれば、もしかしたら出くわすかもしれない。可能性は否定できない。
だから俺は、こうして何の目的もなく、金池の町を歩いている。
【六月十日】
「おや、いらっしゃい」
しばらく出歩いてみたがまったく遭遇する気配がないので、いったん区切りをつけるために俺は行きつけのカフェに入った。平日の昼間なので客は少ない。俺を含めて四人くらい、と言ったところか。カウンターに座っている客は誰もいなかったので、俺はカウンターの左端を陣取った。
「さーて、今日のご注文は?」
「そうだな、カフェラテクリームマシマシキャラメルカラメで」
カフェテリア『次郎』の注文方法は相変わらず独特だ。いつも同じものしか飲まないので、割と饒舌で言えるようになった。くその役にも立たない。
「マスター、なんか今日、機嫌が良くないか?」
「ん? そうかい? まあ、ちょっとね」
やられたらやり返す――そんなセリフで一躍有名になった俳優に非常に似ているマスター。鼻歌交じりで、今日はいつもより上機嫌のようだ。機嫌が良いのに越したことはないが、こういう時は鬼のようにトッピングするから地味に困る。
「はい、お待ちどうさん! サービスでヘーゼルナッツもマシマシしといたよ」
言ったそばから差し出されたのが、白き地層が堆く積みあがったカフェラテである。目視で三十センチはある。どうやったらカフェラテ本体にアタックがかけられるのだろう? まあ、スプーンでクリームをもそもそ食べるしかないのだが。
「気をつけてくれよ。油断すると、バランスを崩して倒れるから」
「じゃあ盛るなよ……」
弄ぶようにマスターは笑う。ダメだ、こんなんじゃ踊らされる一方だ。
「話は変わるが、君こそ今日はいつもより目が死んでいる気がするね。いつもは濁った魚の目をしているが、今日は死んだ魚の目だ」
言いようはかなり酷いが、マスターは核心を突いてくる。
「あー……、まあ、色々な」
「なるほどね。深くは立ち入らないけど、早めに解決しておいたほうがいいよ。そうでなければ、手遅れになるかもしれないからね」
洗ったカップを磨きながら、諭すように。
「手遅れって、具体的にどんな?」
「さあね、それは私には分からないよ。君なら良く分かるだろう? 由紀ちゃんが今、どういう気持ちで、何をしようとしているのかを」
「ちょっと待て、なんでマスターが由紀のこと――」
「おや、あれは何かな」
マスターが窓の外を見やったので、俺は後ろを振り向く。見ると、カフェから程遠くないビルの下に、人だかりができている。
……誰か、有名人でも来ているのか?
少しだけ気になったので、マスターに断り、俺はカフェから外に出た。
民衆は誰もが、空を見上げていた。
そして、俺も彼らと同じように、空を仰ぐ――――。
それは、茹だるように暑い六月のことだった。
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