一 隣にいるということ⑥

 俺たちは人気のない公園に来ていた。周りの道路には車が走っているが、生身の人間で、荷物も傘も持たずに歩いているのは、おそらく俺たちぐらいだろう。

 雨の勢いはいつまで経っても衰えない。髪も服もずぶ濡れで、髪から垂れ落ちる水滴を払う気も起きない。雨に打たれることにも慣れてしまった。お気に入りの赤い帽子は水を吸って黒くにじみ、歩くたびにスニーカーが水溜りを跳ね上げた。

 言葉が見つからなかった。

 冗談を言う気にもなれなかった。

 びしょぬれのジャケットのポケットに手を突っ込む。

 当たり前だが、こんな雨では煙草を吸うことなどできない。仕方なく、小さな子どもがアイスキャンディの棒をそうするように、つまようじを口でぶらぶら揺らす。こうすれば口を開くことはないし、口の寂しさも紛らわせる。苦肉の策だ。

 暗さが増した公園の中に、三人くらいは座れそうなベンチがあった。大雨にさらされて湿りに湿っているが、今さら気にすることもない。お互い何を言うわけでもなく、俺たちは無言でベンチに腰掛けた。帽子を少しだけ、深く被る。

「悪いね、こんな雨の中、付き合ってもらっちゃって」

 ふーっと息を吐きながら、いつもの明るい声で由紀は言う。

「いやー、まさかこんなことになるとは思ってなくてね。こんな雨の日に暇してて、どこにでも来てくれそうな奴って、やっぱマリオくらいしかいないからさ。わざわざごめんね」

「お前が気にすることじゃねーよ、……どうせ、暇だったし」

 やっぱりね、と言いながら由紀は笑う。

「それにしても、こんな時間にどうした? 『今からどこかで少し話せるか』って、直接じゃなくても、メールとか電話で良かったんじゃないのか?」

「あー、めんどくさいじゃない? いちいちメール送ったりするの」

「そういうもんか」

 俺は納得した振りをした。

「だったらどっか店に入ろうぜ? このままじゃ風邪引いちまう。そうだ、この近くに美味い定食屋があるんだ。そこでからあげでもつまみながら」

「……まだ、そんなにお腹空いてないから、いい」

「ガッツリ系が嫌ならシーザーサラダだってあったぞたしか。そういえばお前最近、炭水化物抜くダイエットはじめようとしてたよな? あれ実際は効果ないから、やめたほうがいいぞ。結局はバランスの良い食事と適度な運動が大事だ」

 由紀の肩がかすかに震える。雨のせいもあるだろうが、多分違う。

「どうしても嫌っつーんなら、喫茶店にでも行くか。そう言えばスター何とかコーヒーだっけ? 最近新作メニュー出したらしいって聞いたけど。あ、またイタ飯ってのもアリかもな。あのカルボナーラ美味かったか? 負け犬の飯の味」

「だから何だっていうのよ、いいって言ってるでしょ!」

「一体何があったんだよ」

 由紀は声を荒げたが、俺は頭をつかんで無理やり視線を合わせた。

「バレバレなんだよ。暇つぶしとかそういう柄じゃねーだろ。雨の中、俺みたいなのをわざわざ呼び出すなんて。一体どういうことがあったら、お前みたいな生真面目な奴がそんな行動するんだ」

「生真面目だからって何よ! さっき言ったでしょ! 友だちはまだみんな仕事してるだろうから、暇なのはあんたみたいなニートだけだって!」

「おいおい失敬だな。バイトならしてるぞ。週三だけど」

「今日が勤務日じゃないの知ってる!」

「そうだな。お前、会社帰りにウチのコンビニ寄るもんな。それも俺の勤務日に」

「そんなこと今はどうでもいいでしょ! このクソマリオ!」

「呼び出しといてクソとは何だクソとは」

 由紀はまだ何か言いたそうに眉をひそめていたが、ため息と共に深く俯いた。

「……ダメ、今は喧嘩する気にもなれない」

「してるように見えたが」

「してない」

「そりゃよかった。喧嘩なんてしないほうがいい。平和主義万々歳だ」

 俺は今、静かに嘘をついた。

「話せないことなら、どうして俺を呼んだ? 俺みたいな、失うもののない奴に話せないことなんかないだろうに」

 また嘘だ。

 なんとなく、予想はできていた。

「……ホント、なんでだろうね。どうして呼んだんだろうね」

「いやいや、俺はお前に聞いて……」

「自分の中で完結させるべきなんだよ。自分自身で解決しないといけないんだよ」

 由紀の吐露が、俺の声を遮る。

 もう言葉は届いていない。

「なんだろうね。調子乗ってたのかな、私。とりたてて成功してきたわけじゃないけど、それなりの会社に入れて、それなりの評価受けたから、有頂天になってたのかな。周りが良く見えてなかったのかな。分かんないよ、何が何だかもう」

「おい、落ち着けよ」

「おこがましいことだったのかな。私みたいな平凡な奴が偉そうに主張すること自体が、何か間違ったことだったのかな。粛々と四〇年間、何かを咎めることなく働き続けるべきだったのかな。そしたらまだ未来もあったのかな」

 由紀の声は、途切れ途切れになっていた。雨はいつまで経っても降りやまない。もしかしたらもう降っていないのかもしれない。それすらも分からない。

「もう、どうしたらいいのか分からないよ。どうすべきなのかも分からないよ。全部なくなった、なくなった、なくなった、なくなった…………ねえ、智志」


 ああ、ダメだ。

 やめろ。

 やめてくれ。


 脳裏に、何年か前の光景がよみがえる。

 思い出したくなかったものが。心の奥底に封印していたものが――――




、全部、なくなっちゃった」




 気丈な笑顔は、涙でぼろぼろに濡れていた。

 雨が降っていても、それだけは鮮明に分かった。

 俺は目を細めて、由紀を見つめた。

 どうすることもできない。何もかもが突然すぎる。

 この間まで由紀は、元気に会社で働いていたじゃないか。俺のことをダメなマリオだと貶しつつも笑っていたじゃないか。その由紀は今、俺の隣で泣いている。普段は見せぬ涙を流しながら泣き腫らしている。それはあまりにも唐突過ぎて、言葉が見つからず、俺は黙って由紀の頭を撫ぜることしかできなかった。俺よりも数段は立派な由紀の、その由紀のちっぽけな頭が、俺の手の下でふるふると震えている。こうすることで何も解決しないとは分かっていたが、こうするしかなかった。


 雨が降っていて良かったと思った。


 俺にだって、分からない。

 こういうときは、どうしたらいいんだ。

 俺は、どうしなければいけないんだ。

 分からない。

 分からない自分に、むしょうに腹が立つ。


 このまますべてが雨に流れて消えればいいのに――と、心の底から願った。

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