一 隣にいるということ⑤

 店を出ると、さーっとした静寂に包まれた。

 自分と、自分以外の世界とで切り離されたように視界が不明瞭で、車が横切る度、水しぶきが上がる。暗く、鉛のように重い空気を吸って、身体が少しだけ毒された気分になる。

 雨だ。雨が降っている。

 雨は嫌いだ。服が濡れるから。

 あいにく傘は持ち合わせていない。部屋を出た時は少し曇っているだけだったのに、ラーメン屋に長居したおかげで雲がぐんぐん発達し、こうしてバケツをひっくり返したような夕立を起こしたようだ。人々もこの事態を想定していなかったのか、通学鞄を傘にしたり、小さなおりたたみ傘の中に縮こまっている人で溢れ返っている。

 俺は一人、ラーメン屋の軒下で、つまようじを揺らす。

 ラーメン屋で何をしていたのかはあまり覚えていない。だが、どこか知らない場所で聞いたことは、すべて覚えている。よく分からないことをつらつらと喋り倒した男の顔に至るまで鮮明に思い描ける。

「なんだったんだありゃ。夢か?」

 夢にしてはやけに現実的だった。明晰夢とでも言うのか、こんな経験は初めてだ。

 夢の内容を憶えていることは多少あるが、まるでこの身で体験したかのようにリアルな夢は今まで見たことがない。それをまさか、ラーメン食べてる最中に見ることになるとは。俺らしいといえば、俺らしい。

 それにしても、これだけの雨に打たれながら、傘もなしによく外を出歩こうと思うなと感心した。雨は時間が過ぎるたびに調子づき、もはや滝としか形容できない量の雨が大通りを埋め尽くす。空も黒く、夜の様相。耳にはテレビの砂嵐よろしく耳障りなノイズが走る。半径一メートルより外の会話なら遮断されるレベルだ。

「参ったな」

 よりによって、一人で外出したときに限ってこういう始末だ。雨も天恵に含むとするならば、果たして神様は俺が好きなのか、嫌いなのか。俺自身が困ってるんだから嫌いなんだろうな。

 段々と薄暗さに慣れてきた視界では、相変わらず傘を持っていない人が右往左往していた。スコールが打ち付けているというのに、みんな忙しそうに走っている。今日は土曜日だろう。世間のほとんどは休みのはずだ。どうしてみんな、そんなに急いでいるんだ。たまには休むことだって大切じゃないか。たまには……。

 俺みたいに、止むまで待っておけばいいのに。

 俺みたいに――みんな、立ち止まればいいのに。

「……………………」

 どうしても、頭から離れなかった。

 視界に広がる光景が、さも社会における俺の立ち位置を示しているようで、こめかみのあたりが痛くなる。雨中を走り去っていく人々から隔離されるように立っている俺。その間にできたぽっかりとした空間を埋めるための雨のカーテンは、ここがまるで別世界であるかのような錯覚に陥らせる。

 雨音が少しだけ遠くなる。無意識に、聴覚よりも視覚のほうが優先されたような、不思議な感覚がする。空から落ちる水滴が一本の線となって、降り注いでいくのがはっきりと見えた。激しい雨の音はもう、弱く回る扇風機程度の音にしか感じられなかった。何が俺をそうさせたのかは分からない。分からないから、俺は一歩も動かずに、立ち止まっている。そんな俺に動きをもたらしたのは、携帯の振動だった。

「……電話か?」

 画面を開くと、非通知の番号だった。

 電話はおろかメールすら滅多に届かないこの携帯に、一体誰が電話をかけている? 不思議に思い、通話ボタンを押す。

 耳に当てると、俺が喋りだすよりも先に、聞き覚えのある声が聞こえた。

『どうも! 雨が強いですね、傘を持って来ていてよかったです』

 話す姿がありありと脳裏に浮かぶ。

 ハットを被って、洒脱な雰囲気を醸し出していた、あの男。

「お、お前、たしか夢の中に出てきた……」

『貴方の夢の中に出てきたかどうかは知りませんが、私は貴方のことを知っています。でも名前を知っているわけではありません。それは貴方も同じこと』

 男はひょうひょうとした口調で続ける。

『電車でいつも見かける人がいます。バイト先でいつも同じお菓子を買う人がいます。パチンコ店でいつも台を叩いて起こられている人がいます。ですが、その人たちの名前までは分かりません。でも、貴方はその人たちのことを知っています。その人がどの駅で降りるのか、何を食べるのか、どういう性格をしているかもしれないのか、わずかながら分かっているはずです。そういった人は他人です』

 一呼吸置いて、

『貴方の人生を形作る一部分であり、同時にさほど必要でない人でもあります。エキストラとみなしていいでしょう。しかし彼らとは違い、貴方の人生には欠かせない存在となる人がいます。いつも隣に居る人は、言うなれば隣人』

 電話越しでも笑顔が見えそうなほど、朗らかに言う。

『隣人、すなわち隣にいるひとと言うのは、生きていく上、明日に向かって進んでいく上では必ず要る物なのです』

「……いや、悪いが、なにを言いたいのかよく分からん」

『そうですね。私が進言しなくても、それを教えてくれる人がいるはずです』

 彼はクスッと笑って、

『貴方にはまだ、声を聞くべき人がいます』

 そこで、音声が途切れた。何回呼びかけても通話は切れていて、無機質な信号音だけが返事をした。

 一体何者なんだ、コイツは。

 怪訝に思って、顔をしかめた時。携帯がまた、震える。


『着信 甲斐田由紀』

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