一 隣にいるということ④
俺は椅子に座っていた。
豪奢な椅子だ。二人は座れそうなほどに大きく、白い革と燻した金で装飾されている。座っている俺の格好も奇妙なくらい格式高い。就活の時に着るようなリクルートスーツとは比べ物にならないほど、立派で着心地の良いスーツを纏っている。ポール・スミスとかアルマーニとか、その辺だろうか。革靴もいかにも高級そうだ。ここまで来ると俺にはメーカーさえも思い浮かばない。
目の前には、レース調のクロスが敷かれたテーブルがある。俺から見て横長で、座っている椅子はテーブルの長い辺の真ん中にある。アニメとかで見る広いテーブルの真ん中って感じか。両隣りに二人ずつは座れそうだ。奥行きはそこまでなく、身を乗り出して手を伸ばしたら端っこまで届くと思う。試してみようと思ったが、さすがにマナー違反な気がして躊躇した。
テーブルの上には、何も置かれていない皿と、ナイフとフォークが一セット。今さら気づいたが、俺は真っ白なナプキンを首に結んでいた。普段着なら赤ちゃんプレイをしている成人男性(25)の悲しげなスタイにしかみえなかっただろうが、この格好ならフレンチをいただく準備に見えないこともない。
周りには、テレビでしか見たことのない、いや、そもそもテレビでもなかなか見ることのない、宮殿のような光景が広がっている。
タキシードに身を包んだ人々がウエイターにワインを注いでもらっていたり、革張りのメニューを指先でなぞったり、あそこのテーブルと同じものを、なんてことを伝えたり。俺とはヒエラルキーの違う人間ばかりだ。誰もこちらに目配せしない。各々が自分好みの食事を楽しみ、歓談し、素敵なディナーを送っている。
頭がぼーっとする。日曜日の昼下がりに河川敷で寝転んでいるような、妙に心地よいまどろみが頭の中に漂っている。どうして自分がこんなところにいるのか、なぜこんな恰好をしているのか、考えてみるものの一向に集中できない。まるで他の誰かに思考回路を操作されているみたいだ。マリオネットのように、蛍光灯の紐のように、頭はふらふら揺れる。
蛍光灯。
そうだ、思い出した。俺はたしかあのまま眠りについて、目を覚ましたら陽が落ち始めていて、パンを食べたというのに胃が猛烈に抗議するもんだから、何か食べに行こうと思い立った。それで部屋を出て、あてもなくぶらついて、ここへ来た。いや、ここへ来ようと思って来たのかは定かではないが、ここにこうして座っているということは、何かしらの経緯があったんだろう。その辺り、うまく思い出せない。一人でフレンチレストランにお邪魔する趣向はなかったはずだ。
それにしても、料理はまだ運ばれてこないんだろうか。腹が減って仕方がない。せっかくこんなにも贅沢なところへ来たのだから、持ってくるのが少しでも遅いと不満に思ってしまう。注文をしていない可能性もあるが、それにしてもメニューの一つくらい持ってきてもいいはずだ。
数分待っても、気配はない。
文句のひとつでも言ってやろうと、俺は立ち上がった。
「まあ、そう焦らずにお待ちください」
呼び止められた瞬間、もやがかかってはっきりしていなかった頭の中が晴れ渡り、意識がはっきり戻ってきた。反射的に片手で頭をおさえる。
周囲から人の気配はなくなって、あれだけあったテーブルは全て無人になった。静かな喧騒もウエイターも、どこにも見当たらない。名家のお屋敷みたいな光景はそのままに、俺だけがテーブルの前に立っている。
「料理というものはじっくり、じっくりと時間をかけて完成させるものです」
声のした方向。
テーブルを挟んで、対面にいる誰かを見る。
「それはまるで人の生きる様のようで、人の手によって生み出され、人の手によって消えていく。面白い話ですね。ひとつの小さな料理にも、それが生み出されたドラマ仕立てのストーリーがあり、私たちはそれを当たり前に享受している。これって素晴らしいことなんですよ」
黒のスーツに黒のワイシャツ、白のネクタイ。英国紳士を彷彿とさせるピアノブラックのハットからは、灰色の癖毛がはみ出している。猫を思わせる切れ長で柔らかさを孕んだ双眸は、片手で揺らすワイングラスを見つめている。中性的な顔立ちのその人は、声を聞かなければ男だと分からなかったかもしれない。視線に気付いたのか、彼はハットを取って口角を上げる。
「どうも! やっぱり格式高い恰好は嫌になりますね、いやはや窮屈で仕方がありません。まったく人間は着飾るのが好きですね! 貴方もそう思いませんか?」
「は、はあ……?」
愛想よく、ややテンション高めに話しかけてくるこの男は一体誰だと思いつつ、あまり向き合って人と話さない俺は、うつむきながら首を傾げる。彼はさらに目を細め、グラスに注がれているワインを口にした。
「富、名声、力といったステータスを人間は好みます。それは自己顕示欲によって生じますし、他人に負けたくないと言う嫉妬によっても生じます。これは人として生きていく上で避けられない性と言うか、誰もが一度は味わう感情ですね。誰もがお金持ちになりたい、有名になりたい、一国の王になりたいと思うはずです」
「はあ。いや、でも俺は別にそうなりたいとは……」
「思わないというより、何も考えていない、ですよね? 知っています」
息を呑んだ。彼はにこにこ笑ったまま続ける。
「生きるために働き、生きるためにお金を得て、生きるために食べて、生きるために出し、生きるために寝る。人という生き物はたいていそんなものです。初めは誰も目的なんて持っていません。ですがある時、何らかのアクシデント、ハプニングによって人生の観点はひっくり返ります。要するに、お金を得るために生きる金の亡者になったり、食べるために生きるグルメ人間になったりするのです。これらの良し悪しは別として、彼らは生きるための明確な目的を持ったということになります。生きるために行っていることが生きる理由になる――行為と目的が逆転したケースです。形は多少異なりますが、人の生きる理由というのは、だいたいこうして生まれます」
残りのワインを口に含み、十分に味わってから、言葉を紡ぐ。
「料理が人の生き様のようだ、と言いましたよね。料理も最初は先人に教わり、材料も用意されたものを使って作りますが、そのうち自分ひとりで作りたいものを作るようになります。百人が百人、まったく同じ料理を作ることはありません。望みを込めた自分だけの国を作るように、かならずオリジナルのものが出来上がります。この世界に生きている人はみな、一国の主なのです。ほら、『cooking』にも『king』という言葉が含まれているでしょう?」
「料理が生き様で……みんな、国の主?」
理解が追いつかなかったが、彼は微笑んで肯いた。
「しかしたった一人で国を作るのは困難です。手助けしてくれる人を探さなければなりませんし、邪魔する人を退治するための護衛も必要でしょう。それに、建国するのに最も必要となるのは、自分のこと、王のことをよく理解してくれる伴侶の存在です。そしてその伴侶は、いつもすぐそばにいるはずです」
彼はハットを被り直すと、白く細い指で俺の左隣の椅子を指差した。
「その席は、貴方のそばにいるべき人が座る席です。生涯をともにするべき相手ですね。そして、もう片方の席には、どうかご注意ください」
「もう片方?」
「ええ。悪魔です。そこには悪魔が座っているのです」
声が強張る。
「悪魔は、貴方が心を投げ出し、人生を棒に振ってしまうのを、血を滴らせたフォークと共に待ち望んでいます。悪魔はいつでも手ぐすねを引いています。貴方を陥れるために、貴方の心臓を手中に収めるために」
何も言葉にすることができなかった。狐につままれたような顔をしていたかもしれない。彼はしばらく微笑んでいたが、やがて席を立った。まだ、料理は運ばれない。
「忘れないでくださいね。生きていくのに、大切なもの、それを陥れるものがあるということ。そして、それらはいつでも隣にいるということを」
そう言って、夕闇色のスーツを着た男は俺に背を向けた。
「お……おい、ちょっと待ってくれ!」
俺は慌てて立ち上がり、手を伸ばして呼び止め――
「……お客さん?」
ビクッ! と目が覚めた。
息苦しさに頭を上げる。顔からは豚骨臭のする液体がぽたぽた垂れている。手元にはラーメンの器。食べかけのチャーシューと握りしめたままの箸。
「……作り直そうか? ラーメン、もう冷めてるよ」
俺は一人、ラーメン屋で、顔に背脂の欠片をつけたまま沈黙した。
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