一 隣にいるということ③
俺が住んでいるのは、割と都市部の近くにある住宅街の、片隅にあるアパートの一室。家賃はこの辺りではかなり安めの二五〇〇〇円で、しかも電化製品は一通り揃っていた。その代わり風呂は近くの銭湯になるが、この際文句は言うまい。元々銭湯好きなので問題はないのだ。しっかりとした造りの階段を上って二階の奥まで行くと、俺の部屋、三〇八号室がある。
「オッカエリー、マリオ、オッカエリー、マリオッコリー」
玄関を開くと、かごに入れていたはずのオカメインコのチャコが玄関マットの上に立って、あろうことかご主人様をニックネームで呼んできた。それどころかマリオッコリーなんていう架空のキャラクターの名前まで呼んでしまった。おかしいな、鍵は二重にしておいたはずなのに。
「ほーらチャコ、お前の部屋はここじゃないぞ。あっち、あっち」
「チャコチャン、チョーオナカスイター、スイター」
あ、なるほど。腹が減ったから、かごの鍵を開けて俺が帰るのを待っていたのか。なんて食への執念が強いインコなんだろう。氷河期が来ても生き残れそうだ。そういえば、俺も由紀がカルボナーラがっついでいるのを見てただけで、まだ昼飯何にも食ってなかったっけ。ならちょうどいい。
「よしよし、それじゃ今日は一緒にお昼ご飯食べようねー」
「ヤダ」
え?
◯
ヤダと言いつつ、ペットフードにかぶりつくチャコはやはり可愛い。時折こっちを向いて静止した後、「ナニミテンダヨマリオ」と言いながら俺の顔にキックをかますのも可愛い。爪で器用に俺の腕を掴むから割と痛い。
俺は買い置きしてある惣菜パンを適当にひとつ食べたところで、もう胃袋が満タンになってしまった。フリーター生活を始めてから一度の食事量は控えめにするようになったので、これだけの食料で満腹になってしまう。食費がかからないのは貧乏人にとってありがたいことこの上ない。
ソファに座り、リモコンでテレビの電源を入れる。昼下がりのテレビなんて退屈なニュースかバラエティしかないが、部屋を支配する音がチャコが俺を罵倒する声だけと言うのも侘しいので仕方なくオンにした。多分、芸能人であろう男が何かニュースを読んでいる。隣に立っているおかっぱ頭で高身長な女性は、確か、かなり有名な人で見覚えがあるが、誰だか分からない。俺は昔からテレビをほとんど見ていない。バラエティは尚更だったので、芸能人の顔なんて数えるほどしか覚えていない。そんなものは覚えていなくても生きていけるからいいんだが。
いよいよ手持ち無沙汰になったソファに埋もれる。テレビからは一分で目を逸らし、天井からぶら下がる電灯の先で揺れている紐を眺める。
ゆらゆら揺れる紐。子どもの頃、あれでシャドーボクシングなんかしたっけな。
あの紐のように、俺の人生も揺らぎまくっているのかな、今。
紐ってか、先端についている重りみたいなものが、まさに俺の生き写しか。
ちょっと紐を切っただけで、すぐに堕ちてしまう。
堕ちた先にあるのは、果たして人生のリセットボタンか、電源ボタンか。
俺に結わえ付けられている細い紐ってのは、おそらく由紀のことだ。バイト先でも誰とも話さないので、最近まともに話した人間は彼女しかいない。今だに面倒を見てくれるのも由紀だけ。この俺を社会とギリギリ繋げているのは紛れもなく由紀だ。両親は仕送りこそ送ってくれるものの、最近はまったく話していない。そういえばこの間も手紙が届いていたが、結局返事書かないままだったっけ。いつか書こうと思っていたのに、忘れてしまっていた。まあ、いいか。
俺はソファからベッドに身を移し、チャコを眺めながら横になる。
チャコはテーブルの上に置いてあったアルミ缶をつついて遊んでいる。それまだ開封してないんだけど、大丈夫かな。炭酸の缶なのにそんなに激しく揺さぶったり激しくつっついたりして本当に大丈夫かな。大丈夫だよな「ブシャ―ッッッ」全然大丈夫じゃなかった。あの野郎、クチバシだけでアルミ缶に穴開けやがった。なかなかやるじゃないか。次はスチール缶に挑戦してもらおう。
ふざけている暇はなく、フローリングに広がったコーラを拭くために立ち上がる。きちんと拭いておかないと後でベタベタするから、面倒でも台拭きでやろう。というか、チャコは大丈夫か?
「ウマ―ッッッ!」
いやウマーッじゃないから。
こぼれたコーラに頬とくちばしをこすりつけてクレイジーなチャコは放っておいて、俺は乾いた布巾で床から拭き始める。誰に似たんだか。
そういえば最近、掃除もまともにしてなかったせいか、床にはコーラだけでなく埃も大漁に振り撒かれていた。このまま、心の底にあるちっぽけなプライド、『誇り』まで一緒に拭き取られてそうだな、とか笑いながら考えてしまう。
ひとしきり笑い、息を吐いて、独りごちる。
「なーにやってんだろうな、俺」
忘れようとしても。
どうでもいいことだと考えても、頭にへばりついて離れなかった。
あの光景が――、
少し前に由紀が言った言葉と、由紀の表情と、周りの風景がよみがえる。
『マリオは一体、何のために生きているの?』
斜に構えた返事しかしていなかったが、今になってその言葉が深く突き刺さった。
悪気のない言葉が、引き金になった。
『マリオハイッタイ、ナンノタメニイキテイルノ?』
腐りかけた生卵を踏み潰すように、真っ赤に熟れたトマトを握り潰すように、逆さまのグラスから赤ワインがこぼれ落ちていくように、俺の心は静かに、それでも確かに鼓動を速くした。歯の根が合わない。汗をかいているわけでもないのに、外気とあまり変わらない気温の室内でさえ肌寒く感じる。寒いと感じたときには既に鳥肌が立っている。どうでもいいと思っていたはずのことが、どうでもよくなく見えてくる。でもそれはまやかしで、結局俺にとってはどうでもいいことに違いない。そう信じて今まで生きてきた。それで、今まで何とか壁を乗り越えて、その場しのぎのままここまでたどり着いた。俺の後ろにも前にも、道はない。
何のために生きているのか。
今の俺にとって、一番答えに詰まる質問だった。
恐らく「どうでもいい」では済まされない。今、由紀にこのことを訊かれていたら、俺は答えることができなかっただろう。適当に答えたくはなかった。だからと言って金のために生きているわけでもないし、何か大きな野望があるわけでもない。
自分でもここ最近、何のために生きているのか分からない。
俺の生きる理由。バイトやパチンコに行って、金を稼ぐ理由。
今考えたところで、それはきっと薄っぺらい理由にしかならない。例えば今まで視線を逸らしていたものを急に生きる理由だと定めても、きっとそれは一週間で忘れてしまう。パチンコ台の保留を眺めているうちに脳裏から消え去ってしまう。夢を抱いたことがないのに夢のために生きるとは、今から即興で考えた夢のために生きると言うことだ。そんな軽率なものが人生の最終目標となっていいのだろうか。
由紀がに言っていたことを思い出す。
『あのマリオだって、最初から恵まれているわけじゃないでしょ? 彼は命を捨てて一国の姫を助け出したことによって、名声を得た。彼の生き様に倣うなら、行動することが人生を変える一番の近道じゃないかと思うんだけど、違う?』
言っていることは正しい。
でも俺の生き方には合わないので、実践しようとは思えない。俺は自分から居場所を探すのではなく、居場所ができるのを待つタイプ。今までずっとそうだった。
でも、結局一度も居場所が与えられることはなかった。
なぜか。
俺が神に選ばれなかったからだ。
だが、由紀に対して「俺は神に選ばれなかった」とどや顔で言いつつ、俺は心の中では「きっと神が居場所を与えてくれるはず」と何度も願っていた。自分ではそうじゃないと思っていても、知らず知らずのうちにそうしていた。何だこれは。矛盾し放題じゃないか。神に見捨てられた男が神を信じるなど、愚の骨頂だ。
俺は今まで、何をしていた?
どうしてこんな簡単な事に気づかなかった?
途端に力が抜けて、俺はベッドの上に転がった。ちかちかと光る蛍光灯が眩しい。薄汚れた白光が目に沁みる。目を開けられなくなって、自ずと目蓋が下りる。息苦しい胸の中で、黒くどろどろしたものが、五臓六腑を蹂躙するように渦巻いていった。
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